聖処女のユリ
 春にしては暑い日だった。強烈な太陽の光に街が白ぼけて見え、道にはかすかに陽炎がたっている。時はまだ正午になっていない。リリーは瓶を入れたかごを持って、職人通りの坂道をフラフラとのぼっていた。
(えーっと、まず井戸水を汲んで、それからヨーゼフさんの店で国宝虫の糸を買って、それから、ヴェルナーの店には、今日は用はないわよね?)
 頭の中で、これからすることを整理する。近頃なぜか、頭の中が乱雑な部屋のように散らかりっぱなしのまま、ちっとも片づかないのだ。
(陽気と一緒にボケちゃったのかな。しっかりしなきゃいけないのに)
 リリーは自分を叱咤しながら、頭をブルンとふる。そのとたん目眩におそわれた。
 一瞬あやうく倒れかけたが、とっさに井戸のふちにしがみつき、なんとか足をふんじばることができた。火照った頬に冷や汗が流れる。
 リリーはホッと一息つくと、井戸水を汲みにかかった。今日はやけに水が重く感じられる。太陽はギラギラと容赦なく照りつけてくるが、不思議なことにそれがいっそう寒々しく、リリーの体にはふるえがはしった。いつもの倍の時間をかけてやっと水を汲みおわると、それを瓶にいれてかごにつめ、ヨーゼフ雑貨屋へ向かう。
 雑貨屋は井戸のすぐ隣である。街の人の暮らしにかかせない、この井戸と、生活必需品がなんでもそろうヨーゼフ雑貨屋が隣り合っていることは、ここ一帯の住人にとって、とても便利だった。
(夕食用にベルグラドいもと玉ねぎと、きらしていたからナツメグも買おう)
 そう思いながら店の戸をくぐる。明るすぎる日差しに慣れた目に、店内が一瞬真っ暗闇に見え、リリーの全身から血の気がひいた。
 あれ、体が動かない
 と感じた途端、リリーはちょうど店先で、足元からくずれおちた。

 倒れたあとでも、なんとなく感覚があった。しかし、体が動かない。そのぼやけた意識の中で、自分の状況を客観的に見ていた。一番近くにいて、すぐに気づいた買い物中のおばさんが、リリーに駆け寄りながら声を上げて、雑貨屋の主人、ヨーゼフが急いでカウンターから出てきた。こんな所で倒れちゃって、みっともないなぁなあとおぼろげに思う。
 ヨーゼフは素早く、しかし丁寧にリリーをかつぐと、店を出て裏手に回った。通りの人達は、なにごとだと二人に視線をおくる。リリーは見るからに、青ざめ、ぐったりしていたので、誰もがすぐに事情をのみ込んだ。近所の人が手のふさがったヨーゼフのため、入ろうとしていた家の門を開けてくれる。
 玄関に上がった途端、ふわっと植物のいい香りに包まれた。こっちにやって来る女の人の声が聞こえる。リリーは客間のベッドに寝かしつけられた。穏やかな家庭の雰囲気、やわらかいベッド。安心と同時に、リリーは気を失っていた。



 ひたいに置かれたひんやりしたものの感覚で、リリーは目を覚ました。
「気がついたのね」
 温かな声で、我に返り、ヨーゼフ雑貨屋の店先で倒れたことを思い出す。
 ぼんやりと目を開いたリリーの前には、優しそうな女の人がいた。栗色の髪をゆるく巻いていて、質素な格好の、とても素朴な印象の人だった。ヨーゼフの奥さんだろう。リリーはひと目見ただけで、女性に好感をもった。
「ありがとう、ございます……」
 まるで息のすい方を忘れてしまったみたいに、体に力が入らずに、かぼそい声しか出なかった。
「いいのよ、家の人はホラ、街の人に親切にするのが生きがいのようなものだから」
 リリーはうなずきながら微笑んだ。あの旦那さんにしてこの奥さんあり、という感じだ。ヨーゼフは街の人達のため、店の商品のすべてを、正規より低めの価格で取り扱っている。儲けが一番なら決してやらないことだ。そしてそんな行為を奥さんもみとめている。しかし、リリーは初めて会って思った。奥さんもそれを推奨している。
 この質素な一階建ての家全体が、それを物語っているようだった。大切に遣い込まれた家具達、全体の雰囲気にあった淡い色調の壁紙、カーテンや絨毯。特別な調度品などはなにもない。しかし、部屋のあちこちに植物が飾られていた。リリーがそれを眺めていると、奥さんは嬉しそうに
「趣味なの」
と言った。
 リリーの心に静かな安息が広がる。久しく感じていなかった、家庭の雰囲気。母がいるということ。ザールブルグに来てからは、リリーが一行の母親役をつとめていた。自分ではそれなりに上手くやってきたつもりだったが、今こうしていると、全然違うということに気づく。母と呼ばれるような女性には、包み込むような大きな力がある。傍にいるだけで、安心できるような。それに比べると、自分はまだまだ頼りない。
 少しずつ顔色の良くなってきたリリーを見て、奥さんが
「ランドー食べるかしら」
と、綺麗に皮がむかれて、小皿にのったランドーを差し出した。お礼を言い、リリーはさっそく一つつまんだ。渇いたのどに、甘酸っぱい果汁が広がる。ランドーは、適度に冷やされていて、とても美味しかった。
「ヴェルナーくんのお店にあるものは、私には分からないものだらけだけど、これだけは気に入っていて、よく買いに行くのよ」
「あ、あたしも最初は、ランドーばっかり買ってました。他のものは、分からないし、それに高いし」
 奥さんはふふっと笑って、ちょっとうなずいた。
「ヴェルナーくんがあの店を受け継いでしばらくたってから、店の商品をどんどん入れ替えていったのには驚いたわ。私も主人も、雑貨屋って日常の品をあつかう店だとばかり思い込んでいたから。でもそのおかげで、こうやって遠い国の果物が食べられるのよねぇ」
 リリーは、街の人がヴェルナーのことを話しているのを聞いたことがなかったので、なんだか嬉しかった。いつも自分が一方的に、友達やイングリドやヘルミーナに、ヴェルナーのことを喋っているばかりだったからだ。ただ、喋っているとは言っても、こんなことを言われた、失礼な人!という話題がほとんどで、リリーの周りの人はみな、ヴェルナーのことを変な物ばかり売ってる嫌味な雑貨屋だと思いこんでいた。実際に時々会ったイングリドやヘルミーナは、最近ではそうでもなくなって来てはいるが、リリーの話を聞いただけのイルマなどは「そんな人とはさっさと縁を切ったら?」なんて言ってくる。リリーはさすがに言いすぎだったかなと、これからは気をつけようと思っているところなのだ。だから、自分が介入していないヴェルナーの話は、聞いていて新鮮だった。そう思われたりもしているのね、と気づく。
「その格好、もしかしてお姉さんは錬金術師の方なのかしら……主人が時々うわさしてるわ」
「ええっ何をですか?」
 夫人はベッドにひじをのせて頬杖をつくと、嬉しそうに言った。
「お姉さんが来てから、街が前より明るくなった、活気が出てきたって言ってるわよ」
「まさか……そんな……」
 リリーは恥ずかしげにうつむく。先ほどまで悪かった顔色は、ほのかに赤みがさしていた。
「本当よ。主人はああ見えて、街のことにはうるさいのよ。こと人々に関してわね」
 照れくさいリリーは、早く話題をそらせようと、ポケットを探った。そこにはいつも持ち歩いているものが入っている。モゾモゾとふとんから引き出された手から、しゃらりと音がして、ペンダントがあらわれる。年季の入ったもので、なんども握られた結果、中央にはめ込まれた小さな宝石は、にぶく、温かみのある光へと変化していた。
「これは……」
 夫人が手を伸ばす。
「ええ、ヨーゼフさんに貰ったんです。あたしが初めてこの街に来た時に。奥さんとの思い出の品だって。あの時、すごく嬉しかったんです。それで、ああ、この街でやっていけるって、そう思ったんです」
 リリーは、その時のことを思い出して、ペンダントを両手で握りしめた。
「そうだったの…。あなたにあげたって、聞いていたけど……。そう、良かったわ」
 夫人はしばらく、遠く彼方に視線をさまよわせていた。夢見るような目は、在りし日のことを思い返しているようだった。幸せな恋人同士だった若い二人。今は幸せな夫婦だ。リリーはもう一度ペンダントを握りしめて言った。
「あたしも、奥さん達のようになれるかな?」
 それは、質問というよりは、独りでに口をついて出た希望というような言葉だった。夫人はリリーを抱きよせた。
「なれますよ、きっと!」
 おもむろに体をはなした夫人は、リリーの顔を覗き込むと、にこやかに言う。
「お相手は誰なのかしら」
 リリーは口をぽかんと開いた。
「え……?」
 お相手もなにも、リリーにはまだ恋人がいない。威張ることでもないが、そう伝えようとしたところ、夫人が先に口をきる。
「いや、ねえ、ほら、もしかしたらってこともあるでしょう」
と言い、ホホ、と口をおさえる。リリーは要領を得ずに首をかしげた。
「体は大事にしなきゃだめよ、もし困ったことがあったら、私の所に来なさい。きっと力になれると思うから」
 リリーは素直にうなずいた。

 ドアの叩かれる音がして、夫人は席をたった。
 一人になったリリーは、ぼんやり今の言葉を思い返していた。なんのことを言っていたのか、いまいちよく分からない。力になれるというのは、人生の先輩としてだろうか、それとも医薬の心得でもあるのかもしれない。たしかに、家中に飾られた植物には、花と一緒にところどころハーブがまざっている。料理に使うものもあれば、薬になるものもあるので、そう思うと納得できる。
 しかし、あらためて、自分はどうして突然倒れたりしたのだろう?ということが気になった。今朝は特に気分が悪いわけでもなかったし、歩いてる時に少しフラッとはなったけど、そのくらいだ。今までだってかなり無茶をしてきていて、3日の徹夜もしょっちゅうだった。だがろくに体調を崩したことも無かったので、体だけは丈夫だとすっかり思い込んでいたのだ。
(そんなことはなかったみたい……これからはもう少し注意しなきゃ)
 リリーが倒れると、困るのは自分だけではない。イングリド、ヘルミーナ、ドルニエ先生……それに、依頼をしてくれる街の人たち……そのみんなを困らせることになってしまう。だからなんとしても、リリーは簡単に体を壊すようではいけないのだ。
 居心地のいいベッドでしばらく休んだおかげで、気分もだいぶ良くなっていた。あの熱いのに冷えきったような妙な感覚もなくなっている。リリーは手をついて、ゆっくり体を起こしてみた。大丈夫なようだ。掛け布団をのけてベッドを降りようとした所で、夫人が部屋に帰ってきた。
「あらあら、まだ寝ていなくて大丈夫?」
 あわててベッドに近寄る。リリーは、平気ですと言って微笑むと、ベッドから足を下ろし、そのまま腰をかける体勢になった。
 夫人の後ろから、男が部屋に入ってきた。黒いシャツにカーキ色のベストの……
「そんな意外そうな顔するなよ。忙しいヨーゼフの旦那に代わって様子を見に来てやったんじゃねえか」
「悪いわねー。彼はこうやって時々、主人の代わりに手伝ってくれるのよ」
「へえー、ヴェルナーがね……本当に意外だわ」
 リリーは、問題児だと思っていた生徒が、よそできちんとしていたのを知ったみたいに、なんだか感心した。
「元気そうで安心したぜ」
 ヴェルナーは気に入らなそうに言い捨てる。
「ヴェルナーくん、お茶いかが?」
「いえ、お構いなく、ちょっと様子を見に来ただけですから」
 ヴェルナーは片手をあげて返事をした。
「あら、久しぶりに家に来てくれたのに。残念ね―」
「お店もありますから」
「そうよね、引止めちゃ悪いわよね。また今度、ゆっくり来て頂戴ね」
 そのやり取りは、普通の近所の人同士のもので、リリーは思わずふきだした。
「ヴェルナーにも近所づきあいがあるのね〜」
「はあ?あるにきまってんだろ」
 そういう様子は、少しきりが悪めだ。リリーはますますおかしかった。
「それじゃ、用はすんだから」
 ヴェルナーはそう言うと、さっさと部屋を出て行った。リリーは急いで立ち上がると
「あ、あたしも、だいぶ具合が良くなったので!帰ります」
と言った。
「どうもありがとうございました!」
 ぺこりと頭を下げる。
「もう帰っちゃうの?寂しいわ、もっとお話したかったのに…」
 そう思ったのはリリーも同じだった。これから先も、イングリドやヘルミーナのこと、家庭と仕事のことや、毎日の献立のこと、話したいこと、相談したいことが山ほどある。この年でほとんど主婦のような立場のリリーは、親子ほど年の離れている夫人のことをとても身近に思った。頼れる先輩が出来たようで嬉しい。
「また来ます!今度、もっと具合のいい時に」
 そうね、と言って夫人は明るく笑った。
「それじゃ、気をつけて」
 リリーは瓶の入ったかごをつかむと、バタバタと外へ出た。

 外へ出ると、そよ、と風がリリーを優しく撫でた。明るい緑の庭はそのぐるりを、低い木の植え込みと、小さいながらも立派な菜園にかこまれている。新しい芽があっちにもこっちにも吹き出していて、日の光をあびて成長しようという若い植物たちの輝きが、一帯に満ちていた。
「ヴェルナー!は、もう帰っちゃったかな?」
 玄関を出た所でそう言い、立ち止まって辺りを見回す。すると、玄関のドアのすぐ隣、壁に寄りかかって腕組みをしたヴェルナーと目が合った。
「病人を置いて帰るってのもひどい話だからな」
 壁から背を離すと、ひょいとリリーのかごを取り上げる。
「送っていってやるよ」
 リリーは勝手に歩いてゆく背中を見つめた。
「ありがと……今日は、優しいのね?」
 ヴェルナーは立ち止まると、首だけ振り向いて言った。
「まー……、それも頼まれてんだ」
 リリーは微笑むと、追いつくように3歩走った。追いつきざま振り向いて言う。
「それじゃ、ヴェルナーじゃなくて、ヨーゼフさんが気が利いてるってことね」
「そういうことだな」
 たしかに、かごを持った手を肩にかけて歩くヴェルナーはかったるそうだ。時々あくびをしている。でもリリーは気にせず、話を続けた。
「ねえ、ヨーゼフさんの奥さんって、いい人ね」
「そうだな」
「そういえば」リリーはちらっと気になっていたことを思い出した。
「家にいろんなハーブとかがあるのを見たわ。薬にも詳しいみたいだし……何かやっている人なのかしら?ヴェルナー、知ってる?」
 親しそうだったので答えが返ってくるだろうとたずねてみた。
「ああ、この辺じゃ有名な産婆さんだな」
「え」
 リリーの足がぱたりと止まった。ヴェルナーは気づかずに坂道を降りていく。
 リリーは忙しく記憶を巻き戻した。さっきの言葉の意味について、思い浮かぶことがあったが、それはありえないことだ。なんと言っても、まだ恋人もいない。当たり前のことだが、相手もいないでできるものではない。そこに思い当たると、ホッと胸を撫で下ろし、人ごみにまぎれる背中を追いかけた。



 もうすっかり外は暗くなって、空にはぼやけた三日月が浮かんでいた。月の右斜め下には、同じくらいに明るい星が一つ瞬いていて、それはなんだか月によりそう子供のようでもあるし、月に行こうとしているなにかのようにも見えた。よく神話にあるように、もし天に人が住んでいるとしたら、やっぱりその人達は月を目指すのだろうか?
 2階の自室で、リリーは横になっていた。心配した三人に、今日はもう休んでと言われて、いつもより早めにベッドに入ったのだ。
 リリーが倒れたという噂は、心配した街の人により、すぐに工房まで届いていた。ヴェルナーに送られて帰ってきたリリーを真っ先にむかえたのは、心配していたイングリドのお叱りだった。まったく、どっちが年上だか分かりはしない。ヴェルナーは苦笑して「いい弟子だな」と言うと、涙目のイングリドに向かって、しっかり頼むぞと言い残し、自分の店に戻っていった。さっそく一つ迷惑をかけてしまったわけだ。
 工房に帰ったリリーは、初め、もうすっかり具合も回復したと思っていたのだが、いつもの夕飯が今日はひどく味気なく感じられ、どうもスプーンがすすまなかった。やっぱりまだ調子がおかしい。横になる前に、ストックしてある常備薬を飲んだ。出番の多いものなので、ばっちりブレンド調合してあって、効果はSランクだ。大抵はこれでなんとかなる。だから、明日にはこの体調もきっと良くなっていることだろう。
 あくびが一つもれた。リリーは体を左右に動かしてすっかりふとんにうずまると、カーテンの間に見える、空にとける月を眺めながら、ゆっくり眠りに落ちていった。

 いい香りがする。春の宵のように甘くて、でも清潔で澄んだ、とても好ましい香り。
 ふいに目の前に大きな白いユリがあらわれた。リリーの名前の由来になった花だ。親が、女らしく、優雅にとの思いをこめて付けた名前。そうはなれなかったために、見ると少し罪悪感を感じる花。でも好きな花だ。リリーは再び胸いっぱいに香りを吸い込んだ。よく見ると、このユリにはオシベが無い。変だな?と思っていると、視界の全体を占めていたユリが遠のき、それを持っていた人が見えた。
 男か女か分からないが、とても綺麗な顔をしている。ゆったりとした白い服を着ていて、細かい巻き毛の金髪を長く肩へたらしている。驚いたことに背中に鳥のような大きな翼がついていた。その色は、赤、黄、緑と南国の鳥か花のようで、なんとも目に鮮やかだ。その人が片手にユリを持ち、リリーに向かって静かに微笑みながら膝をついている。
 それはまさに、この世で見れるとは思えないほどに美しい光景で、リリーの目からは自然と涙が流れた。
 まばゆいほどの美しい人がその口を開く。世界が凛とふるえる。口の動きと1テンポ遅れて、その音が伝わってきた。非常に遠くから聞こえてきているようだ。
「お め で と う ご ざ い ま す」
 一文字ごとに大事な意味があるかのように、ゆっくりとした言葉だった。それにもかかわらず、リリーは意味を悟れなかった。
 たずね返そうとしたとたん、たちまちその光景は風に吹かれて散る葉のように、どこへともなく四散した。



 翌日になっても、完全に体調が回復したとは言えなかった。生活に支障が出るというほどでもないが、体が重く、気分も冴えない。寝ているにしては元気だし、働くにしてはだるい。なんとも中途半端で本当に困るが、リリーは気力を呼び起こして身支度をすると、気にしないことにして1階へ降りていった。
「先生、大丈夫ですか?」
 階段を下りるリリーに、イングリドがかけよる。ドルニエはもう出かけた後なのだろうか、姿が見えない。食卓にすわってスープを飲んでいたヘルミーナも、心配そうにリリーを見上げた。
「うーん、まだちょっと具合悪いけど、でも寝ているほどでもないから、今日は簡単な仕事をしていることにするわ」
「無理しないでくださいね。今ある依頼のほうは、私たちがなんとかしますから!」
 朝食を少しのスープで済ますと、そろそろ散かってきた工房を見回して、リリーは竹ぼうきを作ることにした。干し草を揃えてまとめて、縄で竹にしばるだけなので、たいした労力もかからない。しかしリリーは、はっきり言うと、なにをする気力もなくなっていた。いつもは調合し出すとすぐに沸いて出る集中力も、チラリとも顔を出さない。
(やっぱり、おかしいわ)
 草を縄でぐるぐる巻きにしながら、思い通りにいかない自分に無性に腹が立ってくる。そしてそんな風にくさくさしていることが、なによりも嫌だった。
 ほうき作りを中断したリリーは、思いきって立ち上がった。
「気分転換にちょっと歩いてくるわ。ついでになにか買い物とかある?」
「それじゃ、もしあったら星のかけらを買ってきてくれませんか?昨日依頼されたものを作るのに星の砂が必要ですから」
「わかったわ」
 リリーはかごを取り上げると、瓶を入れようとして昨日のことを思い出し、今日は井戸水を汲むのをやめることにした。
「気をつけてくださいね」
 扉を開くリリーにイングリドが声をかけた。

 今日は風が強い。通りを砂ぼこりが舞い上がる。リリーは目を細めた。
 いつの間にか、大人になっていってるみたい。リリーの心に一抹の寂しさが浮かんだ。
(今まで、あたしがあの子達のことを守ってあげなきゃって思ってたけど、あたしの方こそずいぶん二人に守られていたんだわ。あたしも、ちょっとは成長してるのかな、錬金術や冒険の腕以外に……)
 リリーは胸に手をあてた。ザールブルグに来てから数年たった。ここで、ヨーゼフさんにペンダントを貰ったあの日から。ポケットからペンダントを取り出すと、小さな宝石を覗き込む。その光は鈍くなっていて、なにかの姿を映すことはもう無かったが、リリーは飽きずに見つめていた。いつか、これを誰かに渡せる日が来るのだろうか?奥さんがヨーゼフさんにしたように、これをあげたいと思う人に、出会うことがあるのだろうか?それほど誰かに対して気持ちが膨らむことなんてあるのだろうか。
 強い風に雲がどんどん流されていく。通りは陰り、晴れ、そしてまた陰った。その遍歴は、非常に神秘的に見えた。夕べの夢を思い出す。リリーはどきりとした。お腹が重い。膨らんでこそいないが、まるでなにかがそこにいるような熱がある。自分の体がまるごと全部、大きな触媒か導線、大地にとける水になってしまったようで、昨日までの自分のものとは別物のようだ。それはひどくもろく、しかし涙の出るほど尊くて、そして大きな力を秘めているように感じた。
(そんなはずない!)
 気のせいにきまってる。だけど啓示的に、リリーは感じていた。自分の体に、とても大事ななにかを抱えていることを。
 リリーはすでにヴェルナー雑貨屋の前にいた。今の思考で頭がいっぱいになっており、なんの感情もなく扉を押し開く。
「ああ……、何か用か?」
 この雑貨屋に錬金術に必要なものがいろいろ売っていることに気づいてからは、リリーはしょっちゅう買い物に来るようになっていた。おかげで店主は、一目見るだけで、この客が今どんな状態なのかが分かるようになってしまった。常連の少ない店なのだ。そして今日のリリーは、いつもと果てしなく違っていた。心ここにあらずといった感じで、目を伏せたまま、挨拶もしない。
「おい、お前まだ調子悪いんじゃないのか」
「うん……」
 リリーの顔が急に引きつり、お腹を押さえて体を折った。ヴェルナーはカウンターを跳び越して、リリーを抱きとめた。
「なんだってそんな、無茶したがるんだ」
 いつもよりさらに険しい顔つきに、押し殺したような低い声で、ヴェルナーは言った。
「……たし、そんな、違うわ」
 震えながらリリーが呟く。
「どうした?」
 ヴェルナーは背をかがめてリリーの瞳を覗き込んだが、その瞳には光がさしていなかった。なにを見ているのかも分からない。すると、ふいにその瞳に涙がわいた。
「怖いの……」
 リリーはめったに弱音など吐かない。いや、人前でなどは絶対にだ。ヴェルナーには、なにかとんでもないことが起こっているのが分かった。両肩をしっかり押さえる。
「落ち着けよ」
 リリーは肩に力強い大きな手を感じた。これは……お父さんの力強さ。人のぬくもり。この世に人を結びつけてくれるもの。
 リリーはそろそろと顔をあげた。その顔は、泣き笑いのような表情だった。



 その夜、ヴェルナーは夢を見た。
 どことも知れない平原にいる。周りにはなにもない。自分は小高い丘にいるようで、遥か裾野へ広がる地平の向こうまで見渡せる。しかし、どこまで眺めても植物の種類は少なく、景色は単調に感じられた。
 足元にてんてんと白い花が咲いている。遠くから楽しそうな声が聞こえてきた。自分の背の後ろにまだ伸びていた丘の上から響いてくる。ヴェルナーは丘を上った。足元の花はまるで導くかのように、その方向へ向かって増えていく。
 丘の上は眩しかった。生まれたての太陽が、新しい光を燦々と降りそそぐ。
 その中にリリーがいた。腕には、可愛い赤ちゃんを抱いている。二人はよく似ていた。二人はヴェルナーに気づかずに、楽しそうに歌った。知らない言葉で意味は分からなかったが、とても幸せそうな歌。二人がそうすることで、空気の密度は濃くなっていくようであった。単調だった世界に、匂いが加わり、色が増える。赤ちゃんは、すでに歌ったり、踊ったりできた。そうやって二人は、いつまでも、歌って、幸せそうに踊って、世界を成長させていった。



 家々のカーテンごしに、薄い光が揺れる。どこからか花の香りがただよってくる。春は世界に等しく新しい息吹をあたえていた。
 目覚めたヴェルナーは、びっしょり寝汗をかいていた。今日はことに暖かい。窓を開けると、街の人達の生活音が聞こえてきた。話し声、食器の音、顔を洗う水の音…聞きなれたはずのそれらの音に、なぜかホッとする。
 ヴェルナーは昨日から、リリーの様子が気になっていた。その上あの夢だ。この前のヨーゼフ雑貨屋の件といい、思い浮かぶことはある。しかし、それを否定したかった。
 ヴェルナーは自分の店へ行く前に、リリーの工房に寄ってみることにした。

 トントン。軽いノックの音が聞こえる。お客さんだ。干し草を束ねていたリリーは、椅子から立ち上がり、返事をするとドアを開けた。
「よう」
 部屋に入ってきたのは若い雑貨屋店主だった。
「ヴェルナー……」
 昨日のことを思い出して、リリーは顔を赤らめた。二人の間の微妙な雰囲気を察して、イングリドとヘルミーナは調合の手を休めないまま、ひそかに注目する。
「昨日、変だったからな、ちょっと気になって寄ってみた。今日は具合がいいのか?」
「まだあんまり良くはないけどね」
 リリーは無理して笑ってみた。しかし、見上げた顔は真剣だった。
(な、なによ。いつもからかってばっかりなのに、いきなり、真剣に心配してくれるなんて……)
 不安だった心がふわっと軽くなる。とたんに大きな腹痛を感じた。
「っ……!」
 ヴェルナーが咄嗟に手を伸ばす

 と、二人は真っ暗闇の世界にいた。

 わけが分からず、その場に佇む。なにも見えない。天も地も判別がつかない。しかし、しばらく息をつめてじっとしていると、じょじょにあたりのことが分かってきた。
 まず、ゆるやかな風が吹いていることに気づく。生暖かい風だ。それに草がなびいている。
 二人は露に濡れた草原に立っていた。風が時々その細かい露を空に巻き上げる。黒の奥で、灰色の雲が遠く目の高さでゆっくりと流れていた。
 世界は夜らしかった。目がなれると、空には無数の星が瞬いているのが見えた。そしてひときわ大きく、明るい星がその光のすじを八方に伸ばしながら、リリーのちょうど頭上で高らかに輝いていた。
「どういうことだ……?」
「あたしたち、工房にいたはずよね?」
 二人は困惑した顔を見合わせた。しかし、恐ろしい感じはしない。むしろその反対で、ここはなぜかとても落ち着ける場所だった。
「静かねー……」
 フードを夜風になびかせながら、リリーはくうっと伸びをした。
「おい」
「ん?」
 ヴェルナーの指さした方向へ、リリーが振り向くと、音もなく近づく三人の人がいた。
 その人たちのことは、なんとも形容ができない。人かどうかもよくわからない。一人は、煙が密度を増したようなもやもやした黒っぽい感じで、一人は、変なとこから突起の突き出た、白といろんな色のタイルで出来たような感じ。そしてもう一人は、反射された光のようであった。それがなんで人だと思ったのかというのは、ピンときたというのに他ならない。
 静々と近づく三人を、リリーとヴェルナーは沈黙をもってむかえた。そして、三人はとうとう二人の所へ辿り着くと、リリーに向かって、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。今日、我らの世界に女神様が生まれました」
 三人は、頭を下げたままで言った。
「世界が夜明けをむかえます」
 その声が、まるで時をつげる鐘の音のように、遠く、遥かな地平に一条の光がさした。それはどの星よりもまばゆく、一瞬にして草原に伸びていった。そして白い光は、流れる風のような速さで、どこまでも高く、長く広がっていく。
 もう眩しくて、何も見えなくなる、という最後の一瞬、空に大きく、優しく微笑む神々しい女性の姿が見えた。

「リリー先生っ!」
 倒れかけたリリーと、それをささえようと手を伸ばしたヴェルナーの元へ、イングリドが走って来た。ヴェルナーの肩につかまったリリーも、それを抱きとめたヴェルナーも、あっけにとらわれた表情のまま、固まった。二人のそばで、イングリドはオロオロしている。
「あれ?」
 ヴェルナーから勢いよく体を離したリリーは、首を鳥のように動かして、せわしなくあたりを見回した。いつもの工房の一階だ。調合中の音と匂い。よく焦げたり穴を開けたりしてしまう、赤や黄色の格子模様の床。困惑したリリーは、頭をかかえこんだ。
「どういうこと……!」
 一方、そんなリリーの様子を見ていたヴェルナーのほうは、かえって冷静になってきた。どうやら、彼女も同じ目にあっていたらしいと気づく。
「ヴェルナー、さっき、あ、あ、あたしたち……?」
 その真剣な様子がおかしくて、ヴェルナーはクッと笑った。ドアに手をつき、ますます大きな声で笑う 。普段ならその様子を珍しいと思うだろう、しかし今のリリーは本気で困っていて、そう思う余裕などはなかった。
「なにが可笑しいのよっ!それどころじゃないでしょうー?」
 興奮しっぱなしのリリーは、握り締めた両手を上下に振って訴える。それを見ていたヘルミーナが、ぽつりと
「……先生、体は、大丈夫ですか?」
とたずねた。リリーの動きがはたと止まる。
「そうですよ、先生っ」
 取り乱すリリーをぽかんと眺めていたイングリドが、そうだったとリリーの顔を覗き込む。リリーは言うべき言葉が見つからないというように、口を数回パクパクさせた後、ゆっくりとお腹をさわった。首をかしげる。
 気分はすっかり良くなっていた。体のダルさも、ずーっと密かにはりついていた熱っぽさも無くなっている。あの、変な気持ちも。
 そして、そのことに気をとられているうちに、リリーはさっきのことを忘れてきていた。
 ハッとヴェルナーを見上げると、彼はまだ面白そうな顔をしてこっちを見ている。
「ねえ、なにかさっき、変なことがあったわよね」
 言われてみると、ヴェルナーもさっきのことを忘れかけていた。完全に忘れたというわけではないが、何があったのかは思い出せない。暗い場所に居たことと、リリーが一緒に居たことと、なにかひどく神秘的な雰囲気だったというような出来事の欠片のようなものしか、浮かばない。
「ああ……たしか、暗い所にいたような……」
「そうよね、あれ、でも、忘れちゃったみたい。なんだか、とても嬉しかったような気がしたんだけど……」
 リリーは、どんなことがあったか、思い出そうとしてみた。しかし、いくら考えても、思い出すことは出来なかった。



 それからしばらくたったある日。気持ちよく晴れた日のこと。
 新しい芽はどんどん伸びて、緑は日に日に濃くなっている。この頃になると、青葉という言葉が本当にふさわしい。水をいっぱいに取り込んだ樹木が風に揺れると、見えない水の粒が飛んでいる気がする。そしてその無数の水の粒は、太陽の光を反射して、大気中がきらきらと光っているように見えた。歩いているだけでわくわくする。なにかステキなことが起こりそうで、どきどきもする。
 リリーは井戸水を汲む前に、遠回りしてヨーゼフの家の前を通ることにした。庭にある草花を見たくなったのだ。木で作られた低い門の先、ちょうど庭に奥さんがいるのが見えた。
「こんにちはー」
 リリーは走りよって、挨拶をした。園芸はさみを持った奥さんが体を起こす。
「こんにちは。あ、丁度良かったわ。珍しい花が咲いたのよ、見ていってくれない?」
 その言葉にリリーはウキウキと庭へ入った。
「わあっ」
 植物にかこまれた庭は素晴らしかった。前に来た時には咲いていなかった花、出ていなかった芽がいっせいに開いている。そして沢山の葉にかこまれている夫人の隣、膝丈ほどの高さの場所にいくつもの花が咲いていた。ユリだ。それも、見たことのない。
「ピンク色の、ユリ…?」
 夫人は、花の筒のところをちょっとさわって揺らした。得意そうな笑みを浮かべている。
「珍しいでしょ?東の国のユリなのよ」
 風に乗って、ほのかに甘い、清々しい香りが漂ってくる。
 その時、リリーの脳裏に不思議な場所が見えた。
 まだ夜明けをむかえていない世界。暗いけど明るい、いつか行った場所。とても、とても懐かしい。だけど、そこを失ってしまった、思い出せなくなった。それに急に切なくなる。
 複雑な表情のリリーを見て、夫人はゆっくり息をはきだした。
「あの時ね、私、リリーさんは妊娠してたんじゃないかって、思ったのよ」
 リリーがびっくりして目をみはる。
「え、あ、あたしも、そうかな?って、ちょっと思っちゃったんですよね。まだ恋人もいないのに、そんなことありえませんよね」
 あは、あははとリリーは照れ隠しに笑った。しかし、はっきり口に出してみて、初めて思う。そんなことは絶対にないと、なぜ言えるのだろう?ふと疑問に思ったが、その思いはすぐに風に流されていった。
「そうなの…。そう、でもね、リリーさんも、きっとそのうち、その時が来ますよ」
 その言葉はあらゆる意味で痛みをともなってリリーのもとに響いた。しかし、ユリの甘い匂いが、消してくれた。








リリーの名前の由来となったお花「ユリ」にちなんだ話が書きたくて、書いたものです。
ユリと聞いて、最初に思い浮かぶものが受胎告知のそれだったので、話もそういうのにしました。
ていうか……
いいんか?

はあ、しかし、とんでもないテーマに決めたもんです。とラストあたり書いてて思った。
うわわん。
あとヨーゼフさんの奥さん、かなり捏造してしまいました。 (04/2)