泉とバネの春
四角く切り取られた光のような窓ガラスを、蝶々の影がヒラヒラと通り過ぎた。小さな羽ばたきが、かすかにまだ若い春の香りを送りこむ。ガラスを透かして、少女の眠る部屋の中に。
リリーは夢の国から急転直下、下界へ送られたように目が覚めて、同時に何かに思い当たったみたいに跳ね起きた。
彼女を驚かせたのは、目が覚めた瞬間感じた、暖かくて大きい、眩い光だった。しかしそれが朝の光だと分かると、次の瞬間にはネジの止まった人形のように、もといたベッドへ巻き戻るようにストンと倒れこんだ。なんせまだ三時間しか寝ていない。彼女は夢路へ引き返そうと毛布へ潜り込んだが、目をつむってもまぶたの裏にはクリーム色に広がる、好ましく明るい光がうつるのだった。
(もうこんなに明るいんだ)
リリーは、倒れ際に見えた午前六時を指す時計を思い浮かべた。
今は四月の終わり。少し前まで風の冷たい日が続いていたのに、春はかくれんぼをする子のように、もったいぶりつつも面白がって、ふいに現れたと思えばスルリと隠れる。そのくり返しは、しかし季節を確実に夏へと移行させていた。体が待ち焦がれていた暖かさはとても嬉しくて、じんわりと懐かしさまでがこみ上げて来る。
この光に思いきり包まれたい。横たわったままのリリーの中でその気持ちは急速にふくらんで、あっという間に心を満たし、目をつむっているのがもったいなくて、いてもたってもいられなくなった。リリーは覚悟を決めたように上半身を反らせると、思いきり起き上がった。起き上がってみれば短い睡眠時間とはうらはらに、とても爽やかな目覚めだった。
窓を開けると、明るくて清浄な太陽の光と若芽の香りをふくんだ空気が、軽やかに部屋を訪れた。窓枠のすぐそばまで枝を伸ばしている木は、生まれたての葉を愉快そうに風と戯らせ、どの葉も光を一身に受けながらそれを淡い緑の光に変えて空中へ照らし返している。地上に目をやれば、早起きの職人達はすでにそれぞれの仕事にかかりきりだ。あっちの角の家からもこっちの路地からも挨拶を交わす声、さまざまな仕事の音が響き、通りを賑わせていた。
リリーは、昨日夜更かしをして依頼の品を仕上げた所だった。なにかをやりかけるとついつい熱中してしまう性格なので、作業が中途半端なまま寝る気にもならず、いっきに仕上げてしまったのだ。おかげで期日にはまだ間があるし、今日は日が決められたやらなければいけないことはない。
リリーは気持ちのいい戸外を眺めながら窓枠に頬杖をついた。
今日は何をしようか。展覧会のための研究をしようか?少し前に始めたブレンド調合を進めようか?それとも採取へ出かけようか?やりたいことは色々思い浮かんだが、そのどれもが錬金術のことばかりで、自分のことながら、少々呆れて笑った。
錬金術に出会う前は、どうだったのだろうか。そんなに遠くはない日なのに、記憶はすっかり過去のことのようにしまわれていて、思い返そうとしなければ浮かんでこない。今ではまるで別の自分のよう。リリーは、春の光に夢うつつに見とれながら、ケントニスの海と丘に挟まれた故郷の日々に思いをはせた。
青い海をのぞむ高台に、その村はあり、周辺には背の高い草が風にそよいでいた。毎日は親の手伝いをしたり、近所の子の面倒をみたり、あちこち行っては遊んだりして過ぎて行く。勉強は、近所に住む先生の所に習いに行ってもいたけれど、家の手伝いが忙しい時期は行かなかったし、そんなに勉強が好きというわけでもなく、やっぱり野山をかけているほうが多かった。だから今の毎日机にかじりついている生活を続けていることが、思い返せば不思議なことだ。
風が草花の香りを運びながらリリーの前髪を揺らした。やわらかい陽光は遊びにと誘いにきた大好きな友達のよう。彼女は再び聞こえたその声が嬉しく、誘いに乗ることに決めた。
「今日ね、あたし、近くの草原に行こうと思うんだけど、二人も一緒にいかない?」
朝食の準備を終え、席に着くと、リリーはイングリドとヘルミーナ、二人の少女に持ちかけた。
今日の朝食は、さっきイングリドが買ってきた、坂をちょっと上った角にあるパン屋の焼きたて丸パンに、ベルグラドイモのスープ。アトリエの定番献立だ。二人は美味しそうにほうばっていたが、リリーの言葉に顔を見合わせた。
「行きたいですけど……」
イングリドは今も手元に置いてある自分の勉強ノートを開いた。
「私、今、この研究がとってもいい所なんです」
リリーはスープのお匙をくわえたまま開かれたノートを覗き込んだ。
アトリエに暮らす四人の錬金術士は、それぞれがいつも別の研究をしている。各人の性格などにより、その内容は様々だ。リリーは生活に根ざした研究が多いし、イングリドは女の子らしいもの、ヘルミーナはちょっとあやしめ、ドルニエ先生は錬金術そのものに関する研究に興味があり、それぞれがその分野に秀でているので、先生や弟子の関係であっても、お互いに学べることは多く、尊重しあっていた。
イングリドの今手をつけている研究は、物質を変化させるのではなく添加もせずに、色味や香りにだけ変化をあたえるというものだった。リリーには、どこをどうやってそう出来るのか分からない。難しい公式や推論、同じことを繰り返した実験結果などがノートに記されている。
リリーは、最近目覚ましい自分の成長に大いにはりきり、また得意になっていたが、それはこの小さな錬金術士も同じだったらしい。もともとあった素質が、さらに磨かれている。うかうかしていられないとも思うけど、同時にすごく嬉しい気持ちだった。
「すごいわね!イングリド!この研究がまとまったら、あたしにも教えてね」
イングリドは、はにかみながらも嬉しそうにうなずいた。
「あのー……先生、あたしも……」
隣から可愛い声がおずおずとノートを出した。
「ヘルミーナ!」
イングリドがすかさず口を出す。
「リリー先生は私の先生なのに!」
「なによ、ちょっとノートを見てもらうくらい、いいでしょう!」
リリーは二人をなだめながらもにが笑いした。錬金術に夢中なのは自分だけじゃなかった。
「二人共、しっかりね」
朝食の後片づけを終えたリリーは、元気に行ってきますを言うと外へ出た。戸口で大きく伸びをして、上げた腕にふと気づく。外に出る時は、大抵がいつも重い荷物を持っているのだ。何も持っていない身軽さに、落ち着かず、フワフワした。それで違和感を確かめるように手を前へやってみたり、後ろで組んでみたり、頭上にかかげて眩しい光をさえぎってみたり。
「なに、パタパタやってるんだ?」
坂の上から声が聞こえて、リリーは驚いて振り返った。風変わりなものばかり置いている雑貨屋の店主、ヴェルナーがブラブラと坂を下りている途中だった。リリーは慌てて両手を下ろした。
「こんな所で会うなんて、めずらしいわね!」
「まぁな」
ヴェルナーは簡単な用事ならなんでも店のメイドに頼んでいる。そんな彼がこんな朝から何の用だろうと思ったが、なんとなくプライベートに関わりそうなので声には出さなかった。例えば冒険者見習いのテオにならば、そんなこと気にせずに話せるだろうけど。それがなぜなのか、リリーは考えた。ヴェルナーは掘り出し物の扱いや買取もおこなう雑貨屋だからか、いつも物を見る目が鋭くて、それは人にも同じように及んでいる気がする。錬金術にも認識力は必要だが、リリーもそのてんで彼にかなうかは正直心もとなかった。少し同類の香りがする。同業者同士は気が抜けない。かえって相手の気持ちが分かるからだ。だからだろうか、彼に会うとなにか心にひっかかりを感じるのは。
そんなことを考えながらもリリーは街外れまで歩いてゆき、採取の時に通る大きな門よりは東の、塀の間の小さな木戸をくぐり抜けて、草地の丘を上っていった。
遮るものもないなだらかな丘。影といえば、まばらに生える木と、ずっと遠くをゆっくりと進む大きな雲ばかり。あとはただ太陽の光がさんさんと降りそそいでいる。研究にこもり、四方の壁と床板、天井に挟まれた場所で寝起きをし続けた身に、世界の広大さが大きな太鼓の一発のようにどかんと響いた。でもそれは心地よい音だった。風は笛、草は弦、自分の動きによって周囲の音色はまた違った変化を生み出すことを夢想し、青い草の間に点々と咲く小さな白い花のリズムに合わせて腕を振るってから青いローブを大きくひるがえしてくるっと一回りした。すると、半回転中にヴェルナーと目があった。
「あれ?ヴェルナー?何か用?」
また変なところを見られたとリリーは決まり悪くローブをはたいた。さっきは気づかなかったが、よく見れば、ヴェルナーも何も持たず、手をポケットにつっこんだまま、なんとなく佇んでいる。
「俺はここで昼寝でもしようかと思って来たんだが。お前は何しに来たんだ?」
リリーと一緒にいたら大人しく昼寝もできなそうだと思いながらヴェルナーは言った。
「あたしも……暖かくなってきたし天気がいいから外へ出てきただけなんだけど」
ヴェルナーは、そうかと気の無い返事をすると時々昼寝をする場所を目指し、再び丘を上りだした。今度はリリーが彼の後について、それから横に並んで歩いた。リリーの視線を感じ、ヴェルナーがかすかに眉根をよせた。
「なんだ?」
「うーん、ヒマなら一緒に遊ばないかなぁって」
リリーは遠慮がちにたずねた。もともと二人の少女をさそって気分転換に思いきりはしゃごうと思っていたのだ。いつもお店の中に居るヴェルナーは無愛想で、彼は普段からとっつきやすい人ではなかったが、悪い人というわけでもないと薄々判断がついていたし、この場所の開放的な雰囲気は、普段は言えないことも、気軽に言えそうだった。
「ヴェルナー、運動不足になってない?身体を動かすのって、とっても気持ちいいわよ!」
「んん、まぁ、ちょっとなまってるかもなぁ」
と言って、ヴェルナーは肩をまわした。
「しかし、遊ぶったって、何をするんだ?」
ヴェルナーは何も無い丘をぐるりと見渡した。
丘の上は、街よりも少し風が強い。草原は海原のように緑を波うたせ、リリーの髪とフードに結ばれたピンクのリボンがハタハタとひらめいていた。
リリーは少し考えて答えた。
「じゃあ、鬼ごっこ」
そして走りながら、ヴェルナーが鬼だとつげた。
ヴェルナーは苦笑しながら、リリーの逃げた方向へサクサクと草を踏みながら歩いた。
「ちょっとー、それ、捕まえる気があるの!?」
もうずいぶんと遠くまで逃げていたリリーが、大声をはりあげた。
「いきなりこれを本気でやれって言われてもなぁ」
ヴェルナーのなかば独り言の言葉は、風下にいるリリーには容易に届いた。リリーは、ちょっとタイムと叫ぶと(こんな様子とかは、ヴェルナーに子供の頃こんな風にして遊んだ記憶を思い出させた)走って近づいてきた。
「それじゃあ、勝ったほうが相手の言うことを聞くっていうのはどう?」
リリーは、良いことを思いついたという表情で、得意げに言った。
「もちろんあたしは、ヴェルナー雑貨店の商品、全品半額!!」
「な!?」
リリーは、ヴェルナーが抗議の言葉を発するより早く走り去り、タイム終了〜!と、一人で言った。そのうえ木立の間に隠れるさいに、「正午がタイムリミットよ!」と一方的に告げる。
ヴェルナーはあっけにとられ、力なく「なんだそりゃ……」とつぶやいた。
リリーは丘の中腹にある小さな林の中を進み、それから手馴れた要領で木の上へのぼった。ヴェルナーはすぐに追いかけてこなかったから、林へ入ってからの自分の姿は見えていないはずだ。生い茂る葉むらの中で身をひそませていれば、そのままうまい事見つからずにすむかもしれない。
リリーは、カウンターの向うに座っているヴェルナーの姿しか見たことがなかったので、彼はなんとなくインドア派のような気がして、こういうことにかけては、自分のほうが得意だろうと思った。一応の所、落ち着く場を見つけ、安心しつつも用心深く周囲を見回してみる。青葉にぐるりと囲まれ、風に枝は揺さぶられている、ここはまるで豪華なベッドの天蓋とカーテンがさがる、生きている部屋のようだ。チラチラのぞく緑の切れ目からは、様々な色が心地よい調和を次々に生み出しながら見え隠れしているのだった。
さらさらいう葉ずれと、そのたびに鼻腔をくすぐる若葉の香り。リリーは深い安堵へ沈みこみ、だんだんと外の世界の意識は遠のいていった。
一方、お客の少ない昼までを外でのんびりすごそうとやってきたヴェルナーは、元気のありあまっているリリーと駆けずり回るという気にならずに、彼女の消えた林をぼんやりとみていた。
自分は彼女の提案に「はい」と言ったわけではないのだから、最初から「やらない」ことにして、のらなくたって別にかまわないのではないだろうか?ということが頭をかすめたが、こんな状況で昼寝をするのも落ち着かないし、後から全品半額だなんだと言われるのも面倒くさいので、さっさとつかまえて終らせようと判断をつけ林へ向った。ヴェルナーは冒険者をしていたこともある。リリーの予想に反して、身のこなしも軽く、カンもきいた。彼女のようにじっとしていられないような人を見つけるのはたやすいだろう。
木陰につつまれた林は少しひんやりしていて、むきだしの土から蒸発した水分が、土の香りをさせながらあたりをしめらせていた。そして土と緑のまじるところどころには、地上まで届いた白く光る木漏れ日が、まだらな模様を描いていた。
ほんの少し、土が窪み、草が踏みしだかれた跡が小道のようになっている。ザールブルグの人が散歩をしに通ることがあるからだ。ここは一応、塀の外ではあるが、そのすぐそばなので、まだ街の中であるかのようにのんびりとしていて、魔物もここまではほとんどこないのだった。
ヴェルナーは注意深くあたりを見回した。あたりはしんとして、蝶々がひらひらと飛ぶ羽ばたきの音さえ聞こえてきそうだった。リリーはもしかして林の向こう側から外へぬけたのかもしれない。しかし、林を抜ければ一方は街の外壁で、一方はひらけた草地になっている。隠れるような場所はない。タイムリミットもあることだし、あまり遠くまでは行かないだろう。
ヴェルナーは、足元にあった薬草にふと気づき、それに本気でやってるわけじゃないし、とひとりごちた。散歩をしている人のようにあたりの植物を見ながらゆっくりと小道を辿る。眠っている人が起きるみたいに、植物は次々と芽を出していた。久しぶりに街の外へ出たヴェルナーは、あらためてしみじみと春を感じた。緑の鮮やかさは、冬の間にまとっていたカラを脱いだかのように、いきいきと瑞々しい。当初の予定のように、ここへ昼寝をしにきただけだったら、きっとこんな光景などろくに見もせず青空の下でいびきをかいていたことだろう。ヴェルナーは、あらためて目が覚める思いで、あたりを振り仰いだ。木の幹はすっくと空へ伸び上がり、放物線をえがきながらぐんぐん伸びる枝が複雑な網目を頭上に結んでいる。
そこに空より青い色がひっかかるように揺れているのを、彼は見逃さなかった。
リリーがすぐ頭上に居たことにヴェルナーは一瞬戸惑った。気づかれたかもしれないとそのまま一歩も動かず様子をみたが、青い色は風に長いローブのたもとを揺らしているだけだ。ヴェルナーは両手を伸ばしてその木の枝につかまると、懸垂の要領でスイスイと上へと登っていった。そしてリリーのいるすぐ下の枝まであっという間に辿り着くと、いったん止まってまた様子を見た。木は一瞬の間だけども揺れたのに、リリーは気にとめなかったらしい。彼女は太い幹に背中をもたせて、足を折り曲げ枝の細くなる方へ体を向けてじっとしている。なにか考えごとでもしているのか、それとも寝ているのか。ヴェルナーからは後姿しか見えなかった。
ここでヴェルナーは肝心なことに気がついた。鬼ごっことは相手を捕まえればいいルールだっただろうか?前に遊んだのはずいぶん前のことだったので、記憶はあいまいになりホコリをかぶっている。でもそうだとすると、ここから腕を伸ばせば、簡単に勝敗は決まる。木の上だし、逃げ場は下りるか登るかしかない。登ったところで行き止まり、下りることも、下にいる自分のほうに分がある。
ヴェルナーは知らずうちに真剣になっていることに気づき、頭をかいた。でも、悪い気はしなかった。
ゆっくり立ち上がり、座るリリーと同じ目線になる。太い幹に手をついて、体を少しねじるようにして身を乗り出し、横から彼女のすぐ耳元で囁いた。
「リリー」
「……」
1テンポ遅れて、リリーが振り向いた。その瞬間は何をしていたのか忘れてたかのようにきょとんとした顔をしていたが、いたずらな笑みを浮かべたヴェルナーに気づくと息をのみ、ついで耳をつんざく悲鳴をあげた。眠りかけてた鳥がびっくりしてはばたき、リスは隣の木へとあわてて飛び移った。ヴェルナーが驚いてひるんだ瞬間、リリーは駆ける様に木から下りていった。ヴェルナーは「しまった!」と吐きすてるとすかさず後を追いかけた。
リリーは相変わらずもワーキャーわめき散らしながらもあっという間に木を下りきって、ヴェルナーは彼女の猿のようなすばやい身のこなしに驚きつつ急いで木を下りると、林の中を駆けだした。ほとんど手中におさめたと思っただけにムキになって真剣に追いかけたが、さすがにリリーは採取だなんだと出かけるほどあって、普通の街娘が森を歩く時とは全然違い、野うさぎが森を跳ねるように走っていく。しかしヴェルナーもブランクがあるとはいえ元冒険者だ。大木を逆方向から周って鉢合わせたリリーをすんでの所で捕まえられそうになったが、彼女は驚くべき反射神経でそれをよけたので、フードに結んであるピンクのリボンに指先がかすっただけだった。
「くそっ」
思わず声がもれる。
「こら、まて、リリー!」
リリーは面白がっているのかなんなのか、まだ悲鳴を上げながら逃げていた。でもそのきれぎれに、明るい笑い声がもれて、ヴェルナーも思わず顔をほころばせ、久しぶりに走ってきれる息の合間には笑みがもれだした。同時に心では、こんな真昼から大人の男が少女と真剣に追いかけっこをしている所は、普段の自分を知る街の人には絶対に知られたくないなと思っていた。
リリーは、逃げることを再開した時から真剣に遊びに興じていたが、後ろから聞こえるヴェルナーの笑い声に気がつくと、どうしても彼のその顔が見たくなった。なんとなく、いつもの余裕ありげなふくみ笑いとは違う気がする。リリーは思わず走りながらくるりと振り向いた。
ヴェルナーは、予想外のことに一瞬時が止まったように感じた。
春の日差しの中、長い青のローブをはためかせた少女は、まっすぐに、視線を合わせてきた。それは不意で、開けっぴろげで、なにより好奇心に満ちた眼差しだった。ほんの小さな子供のように、先入観にとらわれず、その人自身を丸ごと見る瞳。
その一瞬後、後ろ向きなのに走ろうとしたリリーが木の根に足をとられて尻餅をついた。
「いった〜い」
リリーは、涙目で腰をさすった。ヴェルナーが慌てて駆け寄ると、その前に突然木の棒が振り下ろされた。すんでの所でかわして振り向くと、怒りをあらわにした少年が再び襲い掛かってきた。
「なんなんだ、一体!?」
ヴェルナーは困惑してあとずさった。
「テオ!?どうしたの?」
起き上がったリリーが驚きの声をあげた。テオはリリーを背後にかばう様にヴェルナーの前に立ちふさがり、木の棒を構えた。
「姉さん!もう大丈夫だぜ!」
「……?」
「リリー、こいつ、何なんだ?」
打ちかかるテオから逃げながらヴェルナーが言うとテオは訝しげな顔をしてリリーを振り返った。
「冒険者のテオよ。外へ行く時に護衛を頼むことがあるの。いつもは突然人に殴りかかったりはしない、いい子なのよ」
リリーの子供扱いにテオは傷つき、ヴェルナーは吹き出した。
「はぁー、慕われてるな、姉さん」
ニヤニヤ言うと、テオは顔を赤らめた。
「うるさいっ、姉さんの悲鳴が聞こえたから来たんだ。姉さん、こいつ誰だよ!?」
「雑貨屋のヴェルナーよ。あたし達、鬼ごっこしてただけよ。ねえ、テオもまざらない?二人じゃ面白みが足りないもの」
「えぇ?そうだったのか」
テオは拍子抜けし、走り出す途中で拾った木の棒をポトリと足元に落とした。
「俺は疲れたからもういい。二人でやってくれ」
ヴェルナーは、勘違いで殴りかかられたことに憮然としながらこう言って街の方向へと歩き出した。リリーが背後に呼びかける。
「じゃあ、あたしの勝ちね!」
ヴェルナーは、ガクッと肩を落とした。
「なんでそうなるんだよ!」
「不戦勝よ。それに、あたしが逃げ切ったんだもの」
「バカらし。最初っから無しだ、無し」
「ひどい!ねぇ、テオもなにか言ってやってよ」
「え?」
突然話をふられたテオはわけも分からず目を白黒させた。
「え、えーと、えーと……」
後ろからまだなにか声が聞こえていたが、ヴェルナーは欠伸を一つすると、落ち着ける自分のカウンターで寝ようと街へ足を向けた。さっきまでのことが、昼の夢のような気がする。
太陽は今長い冬の眠りから覚めたように力を回復しつつあり、すべて地上をあまねくその暖かい光で満たしていた。生きとし生けるもの、草花も昆虫も人間も、暖かさに心身がほどけ何かに向って伸びていくようだった。
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春話。本当になにがあるってわけでもないけど。そういうのも好きなので。ただ久しぶりに暖かい空気に会った嬉しさを書きたいとこから展開していった。
それぞれの季節が好きですが、春といえば誕生、再生、復活、というものを感じる。
人称がへんですまん。視点がぐるぐるしてる…。リリーの気持ちもヴェルナーの気持ちも書きたいと思ってしまうもんで。(08/06)