五月の夜 月の綺麗な夜。ある森に、一羽の鳥が天から舞い降りた。そして、ひときわ高い樫の木のまわ りを、ゆるく螺旋を描きながら下降し、とうとうその枝にふわりととまると、歌い始めた。 天が闇にのみこまれ 今日も 夢想の時がやってきます 心の内の火が燃えはじめ 夜風にふかれ それはいやまし とうとう私を 灼熱に焦がします! * 日の落ちかけた頃、一行はちょうどよく少し開けた場所へ出た。 ザールブルグから南へ、五日ほど歩いた所にある、ここ“黒の森”は、その名のとおりうっそ うとした樹木の茂る深い森だ。リリーはシスカとヴェルナーを雇って、初めてここへ採取に来た。 昼もなお暗い森は、静寂に包まれていて、どこかしら神秘的な雰囲気が漂っている。大樹の根は くねりながら地面に顔を出していて、アイテムを探しながら歩くリリーは、たびたび足をとられ た。今日は森へ入って三日目だ。 最初の日、幻の鳥といわれる“オーレ”がこの森に生息していることを発見して、リリーは有 頂天になった。オーレの卵は貴重品で高値で取引されているうえ、錬金術の材料にもなっている。 普段はめったに手に入らない、その卵をいくつか入手することが出来たので、一行は明日には引 き返そうということになっていた。 「今日はここでキャンプにしましょう」 リリーがそう決めると、シスカは道々で拾っておいた、たき木を地面に下ろした。 「そうね。きっともうすぐに、一寸先も見えない闇夜になるわね」 日が落ち始めたと思うとあっという間に真っ暗になってしまうのが森というものだ。火をおこ すと、リリーはさっそく途中で手に入れたきのこと香草、それからヴェルナーが得意の投げナイ フでしとめた野うさぎで夕飯を作った。 森での採取は洞窟や山の上にくらべるとずっといい。現地で食料が楽に調達できる上、寝床と なる地面も柔らかな草や土、落ち葉の上なのでフカフカだ。そしてここは、ほとんど人の立ち入 らない森なので、盗賊に出会う危険もなければ、人間を警戒して襲ってくるモンスターも少なか った。いつもは夜営に一人起きて、交代で見張りをするのだが、今回はほとんどその必要もない。 夕飯がすむと、リリーはいつもやるようにその日採取したものの、かごの中身を整理しだした。 特にオーレの卵は貴重品なので、大事に布でくるんでから、石などの硬いものにぶつからないよ うに分けて、まわりをハチの巣でかこむ。シスカはいつものように槍の手入れをはじめた。 ヴェルナーは特にすることがないので、しばらくリリーが採取したものを手にとって眺めてい た。しかし、やがてそれにも飽きて、ポケットから道中で拾った細い竹を取り出すと、けずり始 めた。 かごの中でのオーレの卵の位置をもう一度たしかめて、やっと整理をおえたリリーが、それに 気づいてたずねる。 「ヴェルナー、なにしてるの?」 ヴェルナーは顔を上げ、にやりと笑うと、そのまま何事も無かったように作業に戻った。リリ ーは興味を惹かれて、そろそろとはって近づくと、その手元を覗き込んだ。細長い指は、器用に ナイフをあやつって竹に小さくて丸い穴をあけている。 最後に削りかすをフッと息で飛ばせてから、ヴェルナーは満足そうに言った。 「よし、できたぜ」 そして竹の側面に口をつけると、思いもかけず高く澄んだ音が鳴り響いた。 「わ!」 リリーの顔が途端にかがやく。「笛ね!」 ヴェルナーは続けて、少し長く演奏した。ザールブルグに古くからある歌だ。 恋人よ 聞かせてよ あなたの声を 聞かせてよ 歌をうたって 古い歌 酒場や祭りなど人の集まる場所で、よくどこからともなくこの歌は流れてくる。ザールブルグ に住むものなら耳なれたメロディだ。 「へぇ、たいしたものね」 シスカが関心して言った。トレードマークの赤い鎧はすでにはずされて、藍色のラフなシャツ 姿ですっかりくつろいでいる。ヴェルナーは鼻をふんとならすと 「これじゃあ、こういう簡単な曲しか吹けないけどな。こいつの作る楽器に比べたら、オモチャ みたいなもんだ」 と笛をリリーに向けた。 「でも、あたしはこういう場所ですぐにちょこっと、という風には作れないけどね〜」 リリーは照れて顔をおさえる。 「二人とも、謙遜家よねえ!」 シスカは呆れ半分、称賛半分で言った。 ヴェルナーの良さは、ある時突然発揮される。街にいる時にはどうでもいい知識だったり、役 に立たない特技だったりすることが、ふとした時に出番をむかえるのだ。 ヴェルナーは歌の続きを吹く。 生まれる前から あった歌 昔 若者が 恋人の 窓辺の下で 歌ったという…… 笛の音を聞きながら、リリーは歌詞を思い出そうとしてみたが、どうも記憶が判然としない。 「シスカさん、あたし、どうしてもこの歌の歌詞がよく分からないんですけど。…すごく長い歌 なんですよね?」 シスカはちょっと笑うと、リリーの質問に答えて言った。 「長いというか、詩が沢山あるのよ。誰かが好きに新しい詩を作って、それが広まったりするか ら、歌詞が際限なくあるの。みんな自分の気に入った歌詞だけ覚えているのよ。もうどの詩が一 番最初につけられたのかは分からないわね。でも、一番よく歌われるのは、これだと思うわ」 そしてヴェルナーの演奏にのせて歌いだした。 恋人よ 聞かせてよ あなたの声を 聞かせてよ…… リリーはひざを両腕でかこんで、耳を澄ませた。いつも喧騒の中で聞く歌を、今は森の中で聞 いている。いつもよりじんわり、歌が心へ染み入ってくる。 「一番歌われる歌詞はそれじゃないんじゃないか?」 歌の終わった所で、ヴェルナーは言った。シスカは意外だという表情をした。 「そうかしら?私はこの歌詞を一番よく聞くわ」 リリーはひざを崩し、ヴェルナーのほうへ体をねじる。 「ヴェルナーがよく聞くのはどんな詩なの?」 好奇心にかられた彼女を見て、ヴェルナーはさっきの言葉を後悔し、軽く舌打ちした。 「そうね。どの歌詞?」 シスカも興味深げに聞いてくる。女性達の期待に満ちた眼差しに、なにを言っても無駄と悟っ たヴェルナーは、ため息をつくと観念した。 「沢山あるが、まあ、これとか……」 そう言うと、普段話す時ほどの声でゆったりと、歌いはじめた。 大空よ どこにある おまえの果ては どこにある 雲 風 星は いずこから あらわれ出るのか 知ってるか そこにも やはり 街はあり 多くの人が 暮らすだろうか…… たき火がちらちらと3人を照らす。パチパチッと薪のはぜる音が、控えめに歌の伴奏をつとめ ていた。 シスカは、思い当たった様子でうなずくと、微笑を浮かべ、聞いていた。 リリーは不思議に思っていた。曲は同じなのに、シスカが歌えばシスカの歌に、ヴェルナーが 歌えばヴェルナーの歌になっている。歌詞と歌い手によって、歌というのはこうも雰囲気を変え るものなのか。 「どっちも素敵な歌詞ね」 古風なメロディとそれに思いを託した歌詞は、リリーに昔の人のことを連想させた。今よりも、 もっとなにもかも分からないことだらけだった時代、人々は自由に想像の翼を広げながら、やっ ぱり毎日を暮らしていた。今の自分と同じように。 もっと歌詞を知りたいと思いつつも、リリーの口からは大きなあくびがもれた。シスカがクス ッと笑って「そろそろ寝る時間ね」 と言った。リリーはまぶたをこすりながらこっくりとうなずく。眠気には勝てない。ヴェルナー は自分のかばんを取りあげると、立ち上がった。 「俺はあっちで寝るから」 そのままみんな、おやすみを言うと、それぞれ居心地のいい場所をみつくろって、横になった。 ヴェルナーは、たき火から少し離れた大きな木の根元に横になった。木の根っこを枕がわりに する。 時が止まったかのように、静かだった。 あお向けになったヴェルナーの目には、枝葉の天井でおおわれた空が見えた。幾層も重なる黒 い影、そのはるか遠くに小さな光がチラチラと見え隠れしている。ここには星も月の光も、おろ かにしか届かない。 ヴェルナーには眠れない夜がよくあった。それはザールブルグに親が残した自分の家にいよう が、このように冒険者としてかの地より遠く離れた場所へ来ようが、変わらなかった。眠れない 夜というのは、眠れない。たとえ体が疲れていようが、そんなことは関係ない。 普段よりずっと静かで暗いこの場所は、それだけにいつもは聞こえないものが聞こえ、見えな いものが見えた。横になっていると、体の下、土の中に水が流れる音まで聞こえてくるかのよう だ。そして木や草が、その水を吸い上げる音も。こうして大地にはりついていると、水を欲する それらの気持ちすらわかるような気がする。 はるか闇夜に目をこらすと、小さなけものの目が光っているのが見えた。夜に行動する生物と いうのは沢山いる。ヴェルナーは自分も、今はそれの仲間だと感じた。体の奥に説明のつかない なにか激しい思いがうずまいて、眠りに休むことをゆるさない。 そうして昼間より数倍するどくなった感覚で、じっとこの夜の世界を観察していた。 しばらくそうしていると、どこか遠く離れた場所から、音楽が流れてきているような、かすか な空気のふるえを感じた。 それに興味と違和感を感じたヴェルナーは、ほとんど無意識に立ち上がっていた。かばんから ランプを取り出して、たき火の火を移す。そして感覚を頼りにその方角へと歩いていった。 草を踏みしめる音に、リリーは目を覚ました。ぼんやりした視界に、闇にとけていく後姿が、 かろうじて見える。 (ヴェルナー……) 認識すると、またすっと睡魔がやってきて、リリーは再び夢にいざなわれた。 ――それからどのくらいたったのか分からない。 リリーはまた突然目を覚ました。なにか忘れ物をしたような感覚をおぼえ、上半身を起こし、 あたりを見回す。たき火はほとんど消え、目を閉じているのと変わらないくらいになにも見えな かった。近くにシスカの寝息が聞こえる。すっかり冷えきった空気に、リリーは身震いをした。 手持ちのランプに明かりをともし、そろそろと立つと、ヴェルナーのいた方へ数歩歩く。 大樹の陰を覗き込むと、かばんだけを残し、ヴェルナーはそこにはいなかった。 そのしばらく前のこと。 すぐに寝るのをあきらめていたヴェルナーは、不思議な感覚に導かれ、森の中を歩いていた。 自分が草地を踏みしめる音、夜行性の動物達の活動する音、風に揺れる木の葉などの自然の音 以外に、遠くから聞こえてくる音がある。ヴェルナーは、それを見つけようとしていた。暖かい 空気と適度な湿気、それに沢山の植物は、森中をさまざまな芳香で包んでいた。むせるほどの森 の呼吸。それは人の心を落ち着かせ、同時にかきたてるような効果をもっているようだった。 大樹のかどを曲がる時は木にナイフで印をつけ、見つめると飲み込まれそうなほどに黒く流れ る小さな川を、倒れた木をつたって越える。 ヴェルナーは一歩進むごとに、未知の空間に足を進めているような気がしてきた。向かう方向 からは、かすかな音のかけらがきれぎれに、しかし絶えず聞こえてくる。風がせまい所を吹きぬ ける音のようだが、違う。まるで甘美な懐かしい思い出のように、その音にはどことなく甘い雰 囲気が漂っている。ヴェルナーの歩調は自然とはやまって、じょじょに小走りになっていた。周 囲の木の数はだんだんへって、藪が生い茂っている。 メロディがかろうじて聞き取れるほどになってきた。ヴェルナーは、今や夢中で走っていた。 とうとうメロディをちゃんと聞き取れた時、これは鳥の声だと思った。流れてくる音は、あま りに高く、そして透きとおっている。しかし、よく聞くと音には抑揚があり、そして歌詞があっ た。と、すると、こんな森の奥で、こんな夜中に歌を歌っている女性がいるということになる。 とても信じられない。この目で確かめるまでは。 その歌は非常に変わっていた。 歌のメロディというのは、普通、人々が口にしやすく、親しみの持てるようにできている。歌 いやすいことが前提なのだ。しかしその歌は、なみの人が歌うことは無理であることが一聴して 知れた。歌というよりも、まるで移り変わる心をそのまま外に出したような、一連の心地よい音 の流れだった。ある時は、高ぶった気持ちそのもののように音程を駆け昇り、信じられないほど の高みへ辿り着く。またはジグザグに道草をしながら音の階段を自由に行き来する。そしてゆっ くりはき出される丸い低音は、たゆたうように半音ずつ流れ、聞くものの心を溶かした。歌には 歌詞がないこともたびたびで、美しい女の声は時にため息のように、悲鳴のように発せられた。 しかし聞いていて不自然では決してなく、むしろこのほうが本当の歌と呼べるものではないかと 思われた。その印象は非常に奔放で、これだけ高度な歌ながら、まるで流れる川か、風のように 自然だった。いや、それよりも、この素早くコロコロ変化するさまは、踊りながら飛んでいるよ うな、風に舞う木の葉だ。こんな芸当を必要とする歌など聞いたことが無い。そして当の本人は、 苦も無くのびのびとそれをやってみせ、歌うことを本当に楽しんでいる。聴衆の心は文字通り歌 に翻弄される。歌がそのまま心になる。 歌に心をとらわれたまま、ヴェルナーはその源流へと急いでいた。太い木がしだいにまばらに なってくる。そして突然、視界が開けたと思うと、あるべきはずの地面に足が届かずに、体が大 きく一回転した。 そこは、森の中の大きなくぼ地だった。まるで大きなものが空から降ってきて、地面にあいた 穴のようだ。そして、そのくぼ地の底の中央に一本、この森のどの木よりも大きくて高い、樫の 木がたっていた。くぼ地には、それ以外に木は生えていない。 くぼ地のはじから転がり落ちたヴェルナーが、頭を押さえて体を起こすと、眼前には瑠璃色の 空を背景に、高く黒くそびえる木が見えた。ランプの火は落ちた時に消えてしまっている。月明 かりをたよりに遥か頭上の木を見上げると、そこに一つの、動く影があった。 天が闇にのみこまれ 今日も 夢想の時がやってきます 心の内の火が燃えはじめ 夜風にふかれ それはいやまし とうとう私を 灼熱に焦がします! まじかでまともに歌を聞いたヴェルナーは、その場に釘付けにされたように、動けなかった。 すべての意識を耳に集中させ、すべての感覚を歌にまかせる。夜の闇の間、風と風の隙間に音は 放たれ、たえず流れる音の粒は、聞くものの耳に、いつ果てるともしれない透明な期待を波うた せた。 梢のささやく歌 草花のため息 小さな虫も鳥も 暖かな空気につつまれ どんな生き物でさえ 心の内の火は燃えて 今宵 ランプのように輝きます 天頂の星々のように 地上の上にも 無数の光がまたたいているのです! 目を閉じて 私の歌を聞けば 地上の光が見えてきます 世界の中にいるということ このはげしくうずまく心の光を 歌は切なく、聞くものの胸をしめつけた。ヴェルナーは閉じていた瞳をひらくと、さっきまで とはまるで光景が変わっていることに息を呑んだ。あたり一面に沢山の小さな光がかがやいてい る。 酒場一軒くらいの広さのくぼ地にあるものは、一本の木だけで、そこにいるのはヴェルナーと 歌のぬしだけだった。くぼ地の上は周囲をモミやマツの木でおおわれている。尖った木はシルエ ットだけを見せ、天に高く突き刺さり、くぼ地はさながら舞台のようになっていた。舞台の周り には沢山の森の動物が集まっている。木という木には鳥がとまっていて、その小さな生き物達の すべてが、淡く光を宿しているのをヴェルナーは見た。そしてその視線はいっせいに中央へそそ がれている。みんな彼女の歌を聞いている。 歌が一段落したところ、ヴェルナーは女性の正体を確かめようと、おぼつかない足取りで樫の 木に近づいた。しかし歌を聞くところ、彼女のいる場所は、どうやらザールブルグの城壁ほどの 高さがあるようで、むなしく見上げることしかできなかった。 「何者なんだ?」 独り言の呟きだった。が、彼女には聞こえたらしい。ヴェルナーの方を見ると、腕を2、3回 振り、なんのためらいも無く枝から飛び降りた。茂みが揺れる。 「うわっ!」 ヴェルナーは慌てて腕を伸ばす。 しかし、彼女は垂直に落下しなかった。広げた大きな両腕をゆったり羽ばたかせると、すぃっ と風にのり、そのままゆるく回って静かに地上へ降りたった。 腕は良く見ると、翼だった。 「モンスターか?」 ヴェルナーは驚きの声を上げる。女性は全身を美しい羽根でおおわれていた。月の光に艶やか に反射している。しかし頭部と足は人と同じように見えた。 「いいえ。鳥ですよ」 女性が答えた。やはり、美しい声だった。 「鳥?そんなバカな。それとも神の使いか?」 女性は少し笑うと、再び言った。 「鳥ですよ。夜啼きうぐいすです。見えませんか?」 「とてもじゃないが…」 納得しきれない様子のヴェルナーを見て、夜啼きうぐいすは羽根を上へ向けた。 「ここは鳥の国の真下なのです」 ヴェルナーは今の自分が夢の中にいるような気になってきた。 (だとしたら、どこからが夢なんだ…?) 頬をつねってみると、痛い。夢ではないようだ。 夜啼きうぐいすは、その様子を大きな目で見ていた。 「地上に疲れた人間が、時々鳥の国にやってきて、私達の仲間になります。私はあなたの笛の音 を聞いて、ここへやって来ました。あなたも鳥の国へ行きたいのですか?」 鳥の国など、初耳である。本でも読んだことが無い。 「そんな珍しい所があるんなら、是非行ってみたいもんだが……しかし…人が鳥になるのか?」 鳥の国に人が住めるとも思えない。 「そう、私達の王様も、かつては人間だった」 (この人は…あの方に似ているわ) 夜啼きうぐいすは、いとしげに目を細めた。彼のするどい目つきは、いつもなにかを考えてい て、相手の心を探ろうとしていることを感じさせられた。いつでも世界の理を解明しようとして いる。どんなに小さなことでも。しかし、そういう人は、知らなくていいことでも知らずにはい られない。限度を把握できずに知識を求め、その果てにとうとう、人間の生は幾重にも鎖につな がれていることに気づくのだ。 実際、ヴェルナーは行き詰まりを感じていた。自分が生きることについて、将来についての。 周りの人間をみわたすと、それぞれに大事なものを抱えていることが知れる。しかし、自分には それがなかった。親もおらず、執着しているものもない。俺は自由なのが好きなんだ。何度もそ う言い聞かせたが、自由は大きくなればなるほど束縛に近かった。目指すべき未来のない生など、 航路を見失った船同然だ。 ヴェルナーの心の火は揺らいでいる。そして色を、光の強さを、絶えず変化させた。不安定な 心のあらわれだ。夜啼きうぐいすはそれを見て取ると、痛々しさに眉をよせ、言った。 「人間は……弱いものです。さあ、気持ちを歌になさい。それはどんな喜びにもまさり、どんな 言葉よりも真実に近い」 森の鳥達が歌い始めた。高い音、低い音、ゆっくりなものもあれば、非常に速いものもある。 どの鳥もそれぞれの歌を歌っていたが、不思議と調和していた。前後左右、上下から幾千もの音 の洪水がすべてくぼ地の中央、ヴェルナーと夜啼きうぐいすのいる底へ流れ込んでくる。鳥たち は翼を広げると、二人の周りを飛行した。淡く小さな星のように光る鳥がまわりながらゆるやか に下降し、そして力強く飛翔する。目まぐるしい鳥の乱舞に取り囲まれ、ヴェルナーは天空、あ の夜空の上を一人浮かんでいるように感じた。 (神様ってのは、こういう気持ちなんだろうか) 夜啼きうぐいすは羽根を伸ばし、そっとヴェルナーを撫でた。するとヴェルナーはそこから、 体が広がる感覚を覚えた。それはじわじわと全身に伝わっていく。まるで押さえつけられていた 力を突然取り戻したかのようだ。普段は意識の底に眠ってのぼってこない感情が一気に吹き出し てくる。そして心の外へ出ようとその時を待っていた。その衝動はどうにも抑えがたく、非常な 魅力を持ってせまって来る。普段そんな気持ちになったとて、それは決して形のあるものに昇華 できるものでははないだろう。しかし今ならそれができる。あふれて止まらない感情は、そのま ま口から外へ流れ出た。歌詞もメロディーも、一緒になって口端に上る。まだ文字も道具も無い、 ずっと昔の人と同じように。 憧れは夢になる 夢は叶えられるためにはばたく しかし大きすぎる憧れは なんの形もとりえない 星を得たいと願ったとしても できることは高く手をかかげるだけ ヴェルナーは自分が歌っている、という感覚がなかった。ただ“ここにある”ものを取り出し ているだけだ。いつもはそれにひどく苦労させられる。実際、今まで様々な媒体をつかって挑戦 してきた。 結局、自分がしたいことはこういうことではなかったのかと思う。どんな媒体を使ってでもい い。自分の気持ち、自分の世界を外の世界に取り出すこと。それもなるべく高い純度で。純度の 高い気持ちは強い圧縮性を持つ。それは一つの結晶だ。なまじの熱では精製できない。現実で行 うのは、かなりの難しさがあるだろう。ほとんど無理と言っていいほどだ。しかし、ヴェルナー にとって、それを目指すことは、あらがい難い宿命のようなものだった。真摯に生きるとは、世 界に挑戦するというのは、そういうことだ。 壁の高さにあらためてめまいを感じる。ヴェルナーは空を見上げた。どこまでも澄んだ瑠璃色 には、星達の饗宴が繰り広げられ、雲はその影さえあらわさない。 「この上に鳥の国が……鳥になれたら、気が楽だろうな」 見上げる瞳は切望と絶望と、そしてそんな気持ちをさえ皮肉るものだった。 「あなたが私達の仲間になってくれたら……」 夜啼きうぐいすが言うと、ヴェルナーは一瞬大きく目を開けたが、すぐに視線を落とした。 「俺は……」 「分かっているの。……今日は、一緒に歌えて楽しかった」 夜啼きうぐいすは優しく微笑んだ。迷っているうちは大丈夫だ。現世に気持ちを残すなにもの かがあるということだから。 夜啼きうぐいすは翼を広げるとゆっくり動かした。風が巻き起こる。彼女の体はふわりと宙に 浮き、また大きく一つ羽根を羽ばたかせるとなめらかに上昇した。そうして樫の木の周りをまわ って上に上りながら歌を歌った。それは天にどこまでも伸びてゆく。天上への階段のようだった。 私はうらやんでおります この世界をつくった神々を どうしてこんなに美しいものが多いのでしょう なぜ春の宵はあるのです なぜ空に雲をうかべたのです 匂い高き花 なぜ緑は輝いているのですか 目で見分けきれないほどの色 耳で聞き取れきれないさまざまな音 世界は知りつくせない 永遠に…… 夜露がクリスタルのような音を奏でたと思った。風の音は心を訳も無く騒がせた。鳥たちの声 はそのまま一つの音に溶けた。遠くの星がいまだ聞いたことのない不思議な音を届けたと思った。 花は小さいがお菓子のように甘い音を空中に漂わせ、地中の、木の中の、そしてヴェルナーの中 の水はその場すべての音を中和して、一気にさらなる高みへと昇らせていた。 その中で夜啼きうぐいすの歌は太陽だった。それらすべてを引き起こし、えもいわれぬ天上の 音色へと誘導する。世界は知りつくせないと歌う歌が、そのまま世界をあらわしているように見 えた。徹底的に孤独で切ない、ゆえに一番、優しい。 あらがい難い歓喜の衝動が天から降ってくる。ヴェルナーはひざを落とし、それでももう一度、 夜啼きうぐいすを一目見ようと空を見上げたが、そのまま倒れこみ、気を失った。 * 朝の森には霧が立ち込めていた。 藪の中を進むリリーは、これではヴェルナーを見つけられないかもしれないと焦っていた。か すかな草の倒された後と、木につけられた印を見てここまで追ってきたのだ。途中の道々では、 採取したアイテムを落としながら来たので、帰り道に困ることはない。しかし、そのアイテムも、 もうつきだしていた。あとはオーレの卵が2個あるばかり。リリーは途中の藪を三つ編みに結び ながら歩き、それを目印にすることにした。しかし、やがて藪もつき、下草と苔の生える場所へ とさしかかった。しかたなく卵を落とす。 もう足跡も辿れない。泣きそうな思いでリリーが最後の一つの卵をおくと……。とうとう、な にもない草原に出た。その中央、霧にかすむ先に黒っぽいものが倒れている。 リリーはからになったかごを放りだした。そのまま夢中で駈け寄る。 「ヴェルナー!」 ヴェルナーの目が開く……と、そこには、見慣れた少女の姿があった。白にかこまれた世界の 中、くっきりと青い光を放って、こちらへ走ってくる。 ヴェルナーは、もう一度、空を見上げた。その瞳は切望と希望を、秘めていた。 これまたとてつもなく地味なうえにポエミー。読んでくださった方、非常にありがたいです。 ヴァルター・ブラウンフェルスのオペラ「鳥たち」の夜啼きうぐいすが好きで堪らず、夜啼きう ぐいすの出てくる話が書きたくて書いたものです。 なのでこの話の夜啼きうぐいすはそれがモデル。 夜啼きうぐいすはナイチンゲールとも呼ばれ、西洋の物語やなんかではよく出てきますね。日本 のうぐいすとは違うんですよね。一度聞いてみたい。 黒の森って、ドイツのシュヴァルツヴァルトがモデルですよね?行ってみたいなあ。 しかし歌の魅力を書くのは難しかった……無理……。 歌は、狂おしいほどの憧れの気持ちを歌っているということになってるんですが。 ヴェルナーの高等遊民らしさを出せる話になっただろうか。 (04/4) |