Light rain 夜の8時頃。寒くて空気がキラキラした結晶のように見える日。リリーは真っ白な息をはずま せて、影絵になった街を走っていた。ここはひっそりと静まり返った、職人通りからちょっと外 れた住宅街。目的地につくと、はやる気持ちをおさえながらドアをノックする。 「こんばんはー」 自宅の戸口から聞こえてきた、昼間耳慣れた声に驚いて、ヴェルナーは1階へ駆け下りた。 「どうしたんだ、こんな時間に、しかも家にくるなんて」 おどろいた表情で頭をかく。その姿を見たリリーは、こぼれんばかりの笑みを浮かべた。口を 開きかけて、くしゃみが出る。いつの間にか、灰色の夜空からは小さな雨粒が降ってきていた。 「傘も持たず、お前はバカか。とにかく入れよ」 来る途中に降り出したのよ…とリリーは相手の耳に届かぬ言い訳をする。時間が時間なので、 本当は用事を玄関先ですませてすぐ帰ろうと思っていたのだが、思いもかけず家に招かれてしま った。嬉しくて顔がほころぶ。にやけっぱなしのリリーをヴェルナーは不気味がった。 ヴェルナーの家は、玄関からすぐの所に階段があり、2階には居間兼書斎がある。階段を上が り、部屋に入ると暖炉が赤々と燃えていた。リリーがあたたかい炎の色と薪の匂いにホッと一息 つくと、ヴェルナーがタオルと着替えを持ってきた。 「俺がお茶の用意をしてくる間にこれに着替えとけ」 そして階段を下りていった。 リリーは渡されたシャツを持って、しばらく動けなかった。 1ヶ月ほど前、リリーはヴェルナーに自分の大切にしていたペンダントを渡した。好きな人に 渡すと想いが通じるという。初めてザールブルグへ来た時の、思い出の品でもある。 リリーの思いは通じたのだろう。いや本当は、もっと以前から通じていたのかもしれない。で も恋はそれから始まった、そういう気がする。ペンダントを受け取ってもらえた時は、全身があ たたかくてきらめく光をうけたような、なにか浄化されたような気持ちになった。 そして今日は、その後の初めての大事な日。ヴェルナーの誕生日だ。 アザミ茶葉の入ったポットとチーズとパンの入った皿を持って、ヴェルナーが階段を登ってき た。 「それで、何のようだ?こんな夜に」 「頑張ってたら、遅くなっちゃって」 リリーはそう言うと、持ってきた包みを勢いよく差し出した。 「ハッピーバースディ!」 一瞬目を見開いたヴェルナーはそういえばと気づき、包みを受け取った。リリー以外の人はあ まり見ない、やさしく微笑んだ顔で。この顔を見ると、リリーはいつも身動きがとれなくなるの だ。胸の奥から波が打ち寄せて体中に広がる。遠い昔へ帰ったような気がする。 「ありがとな」 そっけないが気持ちのこもった言葉。店で会う時よりもゆっくりな口調。 「しかし、俺ばっかりなんか貰ってて悪いな」 「来月はあたしの誕生日よ」 あたたかいお茶を飲んで落ち着いたリリーは、あらためて部屋を見渡した。 「ねぇ、あたしの作った天球儀が飾られてるところがみたいな」 ヴェルナーは視線と指先で、暖炉の向かいにある棚の脇のドアをしめす。リリーはさっそく立 ち上がると、おじゃましまーすとつぶやきながら隣部屋への扉を開けた。 部屋は明かりがなかった。開いている扉からもれいる光で見た所、どうやら寝室らしい。部屋 のいっかくをしめるベッドの隣に小机が置かれ、その上にお目当てのものはあった。星座にはほ たる石からとれた塗料が使ってあるので、暗い部屋の片隅に、丸く星が浮かんで見える。リリー は自分が作ったものだということを忘れて綺麗だと思った。手の中の夜空。 そしてこのたぐいを見て、思わずとってしまう行動。リリーは天球儀に近づくと、ゆっくりま わした。流れていく星。 ランプを持ったヴェルナーが部屋に入ってきた。 「おい、いつまでもこんな所にいると風邪ひくぞ」 つまった胸を押さえ、リリーが振り向く。 「嬉しくって」 「自分で作ったものだろ」 「そうじゃなくて、ヴェルナーがこれを大事にしてくれてることが嬉しいの」 天球儀は結果として、リリーからヴェルナーへの初めての贈り物といえるかもしれない。 あの時の彼は自分のことをどう思っていたのだろう、リリーは自然と考える。そして、今は? 考えると同時に言葉は出ていた。 「あたしのこと…好き?」 (今までさんざん態度でしめしたと思ったが) しかし、そのまっすぐな瞳に捕らえられて彼は中途半端にはぐらかすことをやめた。 「知りたいか?」 リリーは真剣な眼差しのまま、頭を立てにふった。 その場でランプを足元に下ろしたヴェルナーは、シャツのボタンを上からゆっくり外しながら、 リリーに近づいた。あとずさるリリーの腕を捕まえて、その手を自分の胸にあてる。 いくらか早くて強い、鼓動が流れてきた。リリーの腕は麻痺したようにしびれ、暗闇に鼓動だ けが大きく伝わってくるような気がする。リリーは空いてる左手を握って自分の胸にあてた。動 悸を抑えるためにだ。しかしその手もヴェルナーは拾い上げ、そのまま自分の顔に近づけると、 軽くキスをした。リリーは痛みを感じたかのように体を強ばらせた。手に汗がにじみ、目と口は 堅く結ばれる。 リリーの下を向いたままの顔を、ヴェルナーが両手で上に向かせると、臆病に見開かれた瞳は すぐにまた閉じた。 (俺はお化けか?) ヴェルナーは思ったが、彼女の緊張をときほぐすためにゆっくり優しくキスをする。今度は頬 に。好きな相手にこうすることは彼の心も体も夢見心地にさせた。 しかし、リリーは酸欠しそうなほど緊張していた。突然強く体を引き離す。 「ヴェルナー…」 哀願するようにしぼり出された言葉。色を失った唇。その肩は細かく震えている。 一瞬でヴェルナーの表情は険しくなった。 「なんでだよ」 思わず凄みのきいた声でにらみつける。 「お前は違うのか」 好きだから、ペンダントを渡したのではないか、誕生日に贈り物を持ってきてくれたのではな いか。好きだから、あからさまな所で誘ってきたのではないか。 しかし、リリーにそんな計算高さは無く、思った時に思った行動をとっていただけで、それは どこにも偽りのない、真実の気持ちだったのだが、対照的なヴェルナーには信じられなかった。 想像は出来ても、理解することは難しい。 おろかに首をふったリリーは目に涙をためて、必死に、吐き出すように言った。 「好き……」 ヴェルナーの胸で、音をたてて導火線に火がつき、彼は殴りかかるような勢いでリリーを抱き しめると、そのままベッドに倒れこんだ。 「やだ!」 ヴェルナーの胸で10人の自分がいっぺんに叫ぶ。 「なんで!」 彼は押さえつけた手を緩めずに、頬にキスし、唇に長く、強くキスをし、必死に呼吸をするリ リーの胸に、シャツのボタンをはずしながらキスをする。彼女の体からは、えも言われぬ魅力的 な香りが漂い、ヴェルナーは行動を止めることができなかった。 熱く湿った唇が、血の気を失った肌に注射のように突き刺さる。リリーはとうとう震えて、泣 き出した。 痛いほど分かりやすい拒否に、ヴェルナーの心は水を流すように冷えていった。彼は愛撫をや め、リリーから体を離すと、重そうに、起き上がる。 その態度に、リリーは二人の距離がいっきに離れたことを悟り、急いで胸元のシャツを合わせ ると、後を追うように起き上がった。 「すまなかったな」 すでにベッドを離れ、ランプを取り上げたヴェルナーは暖炉の部屋に戻っていく。 リリーは自分が親を失った子供であるかのように感じた。 「待って!」 走って元の部屋に戻ると、ヴェルナーは暖炉の前の椅子に腰をかけていた。こちらからは背中 しか見えない。ヴェルナーは振り返らずに口を開いた。 「俺は、ここ数日にお前の気持ちが俺と同じようになったと、やっとなったと、思うことができ たのに」 (私も同じよ) しかしリリーの気持ちは言葉にならなかった。胸がつまって、制御できない。リリーは部屋を 横切って静かに彼の前に立った。そのままひざをつき、両手を胸にあてると、深呼吸をする。彼 はさめた目でぼんやりとその様子を見てた。リリーは幾度目かの深呼吸をおえると、敗退を覚悟 した強い瞳でヴェルナーを見つめた。 「ヴェルナーと一緒にいれて、すごく幸せなの。さっきは……嬉しくて気絶しそうなほどだった んだけど、でも……」 そこまで一気に言ったリリーは言葉をにごらせた。 「怖いのか」 ヴェルナーはよりいっそう険悪な目つきで、リリーを見下ろしながら言った。女が、交わるこ とに恐怖を感じるということを、どこかで聞いたことがある。にわかには信じがたい。 「怖い」 リリーの顔は真剣だった。 「好きな相手でもか?」 赤くなったリリーはうなずいた。 「あたしは、は、初めてだから」 「そんな大きく構えるもんでもないのに」 ヴェルナーは眉間にしわをよせ、ため息をはくと、しょうがないという感じに頭をかいた。 「それだけじゃないのよ。なんだか今の気持ちが変わってしまうような気がして……怖かったの」 ヴェルナーはこちらこそ向いていないが、だまって話を聞いてくれている。リリーは話を続け た。 「先に進んでしまうと、今のままではいられないように感じるの。今は…」 リリーは顔をいっそう火照らせ、おろかに顔をうつむけた。 「…ヴェルナーに触れるだけで、胸がいっぱいになるのに。キスをもらうと…」 声は少しずつ小さく、おびえるようになっていった。 「…なにもかもわけが分からなくなってしまう、のに」 リリーは大きく息を吸った。 「それがあたり前になって、今ほど感じなくなったらと思うと……怖い」 消え入りそうになったリリーに、思いきり顔をしかめてヴェルナーは言った。 「バカかお前は!らしくないな!」 リリーはキッと顔をあげると言い返した。 「ひどい、これでも真剣なのよ!好きだからこそ強く思うんじゃない!」 ヴェルナーは背中を丸め、リリーに顔を寄せるとその後頭部を手のひらでおさえて、おでこが ぶつかりそうなほど自分に近づけた。 「未来の心配なんてするな」 強い視線で相手を見据える。 「未来じゃなくて、今それがすごく心配なのよ」 当惑したリリーは訴えた。 「とにかくバカ!」 力いっぱい罵倒しながら、しかしヴェルナーは少し安心していた。目を細め、無理やりその気 にさせてやる、と小さくつぶやく。 「えっ、なに?」 心配顔で聞き返すリリーにヴェルナーは言った。 「覚悟しとけ!!」 なによ!とリリーは頬を膨らませた。 それで、この日の二人は元に戻り、お茶を飲んで少ししゃべったあと、リリーは帰っていった。 小雨の振る中、笑顔で手をふって。来た時とまったく一緒に。 ドアの前でその様子を見送り、白い息を吐いて、前途多難だな、とヴェルナーは苦笑した。 しかし二人の関係は、目に見える進展があったとは言えないが、確実に変わっていた。リリー は先に進むのを恐れていたが。 後戻りはできない。とめどなく降る雨を見つめながら、ヴェルナーは思った。 このくらいなら、別になんでもないよね?ね? ……じらすのが好きなので。 是非ヴェルナーには苦労していただきたい…。 ヴェルナーの家、捏造しまくってます。 誕生日になにをあげたのかは、ご想像におっまかせーと言う事で。 タイトルは本当は日本語のほうがいいんだけど、思いつかないので。 「Light rain」は、小雨…です。(じみー) (04/4) |