甘い甘いショコラーデ
 金の麦亭のメニューに、ショコラーデが戻ったことは、ザールブルグ中の甘党の間で大きな話題になった。ショコラーデの材料となるカリカリの実は、ほぼ絶滅したと伝えられていたからだ。それだけに、その復活の感激は大きく、下戸にもかかわらずショコラーデ目当てに酒場の店の戸をくぐる客までいた。

「リーリー!」
 アトリエのドアが勢いよく開くと同時に、自称パン屋の娘、エルザが飛び込んできた。
「あ、いらっしゃーい」
 リリーは調合の手を休めて振り返る。その手の先にある鍋からは、ふんわりと優しい香りが立ち昇っていた。なんともいえず甘くて香ばしい、いい匂い。
「やっぱり!あのショコラーデはリリーが作ったんだ」
 一瞬にして確信を得たエルザは、嬉しそうにそう言った。リリーはえへへ、と小さく笑うと、うなずいてみせる。
「今もブレンド調合をして、もっとおいしいのを作ろうとしているところなの」
 それは楽しみだわ、と言いながら、エルザは調合机をぐるりと一周した。リリーの手元を注意深く観察する。必要な機材は、ランプに、片手鍋…。
「うん、これなら出来そう」
 満足そうにうなずく。
「え?」
 エルザは、突然振り返ると、胸の前でぱんっと手をあわせた。
「リリー!ショコラーデの材料、分けてもらえないかな」
 意外な言葉に、鍋の中身を底からゆっくり木べらでかき回し続けていたリリーの手が止まる。エルザの様子は真剣だ。ただの興味本位ではないらしい。
「いいけど、エルザ、ショコラーデを作るの?」
「うん。作るのは私じゃなくて、お姉さま」
 ホッとしたエルザは、リリーに事情を説明した。ヘートヴィッヒが突然ショコラーデを作ると言い出したというのだ。
「珍しいわね…?」
 ふつふつと煮立つ泡の音と、濃厚になってきた匂いで、リリーはお留守になっていた手元をあわてて思い出した。混ぜ続けていないと上手く出来ないのだ。話を聞きながら、再びゆっくり木べらを動かす。
 エルザの姉、ヘートヴィッヒは、少し前に退屈まぎれに料理をしはじめた。それが今では、なかなかの腕前になっている。元から器用な方だったのかもしれない。それに、いい暇つぶしができたと、それなりに熱心なようだ。そんな彼女だから、珍しいお菓子に興味を持つことは自然に思われた。ただ、根っからのお嬢様なため、面倒な手順を踏んでまで、自分からなにかがしたいと強く望むことなどほとんど無い。ショコラーデといえば、その道の職人にさえ、作るのにたしかな技量が必要なお菓子である。そんなものをわざわざ作りたいと言ってきたのだ。どんなきっかけかは知らないが、リリーもエルザと同じように、そんなヘートヴィッヒを応援したいと思った。
「そうだ!良かったら、リリー、家に教えに来てくれないかな。ショコラーデを作るのって難しそうだし、本当はレシピを借りようと思ってたんだけど、そのほうが安心だわ」
 エルザは、いい思い付き!とばかり軽く体をおどらせた。
 リリーは、錬金術についてなにも知らない人に教えたことが無かったので、少し迷った。だが、普段から二人の少女の面倒もみているし、ヘートヴィッヒともそれなりに面識がある。少々の不安はあったが、やってみたいという気もあり、引き受けることにした。
「リリーなら大丈夫だって!」
 エルザはなぜか本人よりも自信を持っている。
 日取りを決めると、エルザは両手でリリーの手を握ってお礼を言った。そしてショコラーデの出来るさまをしばし見ていたが、日が沈む頃になると、そろそろ門限の時間だと言って帰っていった。最近では家との折り合いもうまくいくように頑張っているらしい。リリーは木べらについた、まだ液体のショコラーデを味見して、深い幸福感に沈んでいった。



 数日後、ショコラーデ作りを教える日がやって来た。シャリオミルクとモカパウダーをつめたかごを持ってお屋敷の門前を見あげるリリーの目には、ザールブルグ有数の貴族、マクスハイム家の御殿がいつになく大きく見える。門に立っていると従者が来て出迎えた。アイテムを売り込みに来た時とは違う、前もって用意されていた歓迎に、リリーの緊張はさらに深まった。従者について広い廊下を渡る。今まで通ったことのない廊下の、豪勢な装飾にリリーの目はうばわれ、ため息のうちにずいぶん長く歩いたらしい。廊下のつきあたりの部屋から賑やかな話し声が聞こえてきた。なんの部屋だろうと、リリーが従者の肩越しに首を伸ばすと、その部屋からふいにエルザが現れた。
 エルザは待ってたわと親しく笑いかけると
「お姉さま、来られたわよ」
と言って部屋に戻っていった。

 明るい部屋は、キッチンだろうか。といってもリリーが普段使っているような部屋の一角にあるそれとは違い、大きな部屋のすべてがキッチンだった。一方の壁側はそのほとんど全体がガラスばりになっており、中庭に通じている。部屋の真ん中にはテーブル同様の調理台が2列並んでいるし、見たことのない料理道具が沢山ある。しかし、なにより目立ったのは、この部屋に集結している貴族の淑女たちであった。
「え、あの、みなさん…?」
 リリーが思わず間の抜けた様子でたずねると、
「ええ、私のお友達で、リリーさんに是非ショコラーデ作りを習いたいといらしたのよ」
とヘートヴィッヒがにこやかに応対した。
 リリーは材料が足りるだろうかと、思わずかごを覗き込んだ。大丈夫。なんとか一人一枚作れるほどある。
「ショコラーデ作りには、最低2日半かかりますよ。みなさん、大丈夫ですか?」
 その間中、貴族のお嬢さん方のお相手をしていられるのだろうか、とリリーは不安に思った。しかし、みんな「大丈夫ですわ!」と意気込み、初めての挑戦に熱意を燃やしているらしい。もう気合十分で、今日のために新調したのであろう、レースとフリルのついた、リリーの目にはもったいなく見えるほどのエプロンを着込み、目を輝かせている。ただ一人、エルザだけは普段と変わらなかった。
 しかし、台所に勢ぞろいするお嬢様だなんて一見不似合いなようだけど、その姿は新しいお稽古事に向かう少女のようにまぶしい。リリーは気合を入れなおし、ひそかに両のこぶしをにぎりしめると、大きな声をはりあげた。
「手を洗って、材料を渡すので、テーブルに取りに来てくださーい!」
 淑女たちは従順な生徒のようにリリーの言葉にしたがった。うきうきとした様子であっちへこっちへと移動しながら、上手く出来るかしら、頑張ろう、等々、はやる気持ちをささやきあっている。貴族の令嬢とはいえ、そういう所はやっぱり同じなんだ、とリリーの肩の力は自然とぬけて、親身な気持ちになっていた。
「ところで、皆さんどうしていきなりショコラーデを作ろうということになったんですか?」
 手早く準備をおえたヘートヴィッヒが、美しく紅のひかれた唇に微笑を浮かべながら答えた。
「ショコラーデの噂、リリーさんはご存知ないかしら」
「あ、はい…」
 初耳だ。他の娘たちも、訳知り顔に、うふふ、と笑いながら目配せしあった。
「噂…。そうか!」
 なにか思い当たったらしいエルザが、目を丸くしているリリーに教えた。
「貴族の間で、今こういう噂が流行っているの。“好きな人と一緒にショコラーデを食べると想いが通じる”ってね」
 ええー!とリリーが街娘ならではの声を上げる。この場のレディたちは、さらにくすくす笑いの波をたてた。
「なんでそんな…?」
 赤みのかかった黄色のドレスに薄い桃色のエプロンを身に着けた、やや勝気そうな令嬢が一歩前へ出て、それに答えた。
「ショコラーデを食べると甘くて幸せで、そのうち熱ですべてとけてしまって、まるで恋のようでしょう?」
 乙女の群れはさざめきあった。
「本当に、恋人同士にぴったりのお菓子ね」
「自分で作るともなれば、きっと、その効果も大きく上がりますわ」
 リリーは乙女の空想力に感服していた。恋のお菓子、今までそんなことを考えたこともなかった。たしかに、ショコラーデを食べている時はもとより、作ってる時の香りも幸せそのもので、甘くて少し苦くて…。
 リリーの頬は見る間に上気していた。生徒たちは、リリーさんって可愛らしいのね、恋人はいますの?と口々に、リリーの心を愛らしくやわらかい羽毛のような言葉でかきたてた。こそばゆい。
「しっかりしないと失敗しますよ!ショコラーデを作るのは、なんと言っても難しいんですから!」
 リリー先生は、恥ずかしさを紛らわそうとわめきたてた。



 3日半が終わって、乙女たちはぐったりと、しかし顔を輝かせてテーブルのまわりをかこっていた。あまりに失敗する人が多く、リリーは途中で工房から材料を持ってきてもらうはめにあったが、出来不出来はともかく、なんとか全員がショコラーデを作り終えた。中でも、当然だがリリーと、それと初めて作ったのにさすがと言うべきか、ヘートヴィッヒの出来はピカ一だった。しかし、他の人々もみんな作り終えたことに満足して、自分のショコラーデをいとおしそうに見つめている。中には感動して泣き出す令嬢もいた。それを見ていたリリーは、自分が独学で錬金術を学び始めた頃のことを思い出していた。
 そう、あの時はあたしも本当に泣いたわ。ただ、ビーカーの中に小さな結晶が一つ出来ただけだったけど、でもすごく大きなことを成しえたと感じた。
 今作ったショコラーデが、今まで作ったそれの中で一番ステキなものだと思う。自分の気持ちが溶けてる。この中に。リリーはこの3日半、何度もそうしようと思って、またやめようと思ったことを考えていた。やっぱり、持っていこうかしら…。

 先生をしてくたリリーに、女の子たちはそれぞれ贈り物をしてくれた。



 職人通りを歩くリリーは、まだ悩んでいた。もう少しで工房…でも…。リリーは迷いながら工房を通り過ぎていた。ショコラーデはなるべく熱や光を通さないように銀紙で包んでかごに入れてある。リリーは思い直した。相手が貴族の噂話を知っているというわけでもない。なにげない風をよそおって、一緒に食べようと誘えばいいのだ。

「こんにちは」
 リリーはいつもより小さめな声で言った。開けなれた雑貨屋の扉、のぼりなれた階段。だけど初めて来た時のようにどきどきする。今日は、お客さんも、メイドさんも見えない。運が良かった。なにがあるというほどでもないのに、リリーはそのことに安堵した。少しずつ階段を上ると、カウンターが見えてくる。
 まったくなんでこの店はこういう構造なのかしら。
 今だけは、自分の胸の鼓動を早めるためにこうなっているとしか思えない。リリーの目線は階段の上に落ちていた。
「おまえ、何かたくらんでるだろ」
 姿が見えて一番、こう言われた。リリーが戸惑っていると
「表情でバレバレなんだよ」
と馬鹿にしたような顔をする。店主はあいかわらずカウンターの向こうで、生あくびをかみ殺していた。言葉は意地悪だけど、会えたことが嬉しいので、かなわないなぁとリリーは口をとがらす。
「なんだよ、思ったことがあるならはっきり言え。気持ちわりぃ」
「もうっ」
 しかしここで言い争うのも野暮だ。リリーは深い息を吐き出して言い返したい気持ちを追い払うと、銀紙のつつみを取り出した。
「美味しいショコラーデを作ったんだけど、一緒に食べない?」
「なんだ、あの貴族の噂か?」
 リリーの胸は途端にどきんと大きく脈を打った。
「えっ、し、知ってるの…!?」
 だとしたら、想いが通じるどころか告白だ。恥ずかしくて、逃げ出したい。
「ああ、仲直りできるってやつだろ」
 呆然とするリリーに、ヴェルナーは考えながら言った。
「たしか、甘くて幸せで、そのうち熱ですべてとけるから、なんだとよ」
「あ、そうなの、あたしも、噂の中身までは知らなかったから…そうなんだ、へーえ」
 とってつけたかのようなリリーの返答だったが、ヴェルナーは特に気にしなかった。
「わざわざこんな高級品を、悪いな。今お茶の用意をするから待ってな」
 ヴェルナーはカウンターの向こうから椅子を持ってきてリリーの横に置いた。
 その椅子に座ったリリーは、安心と同時に、少しがっかりしていた。さっていく背中に小声で「なによ」とつぶやく。
 それにしても、仲直りのお菓子だなんて!意中の相手に渡す時に理由に困った娘が作り上げたのだろうか、なんとも可愛らしい噂だ。

 一緒にショコラーデを食べると、本当のところどうなるのだろう。噂を完全に信じているわけでもないが、疑ってもいない。沢山の人があんなに熱心に思っていることだ。やっぱり、なにかしらあるような気がする。

 しばらくすると、ティーセットをもったヴェルナーが戻ってきた。
「うわぁ、ミスティカティー!」
「いいお菓子にはいいお茶だな」
 思いがけず用意された贅沢なお茶会で、リリーの心はすでに幸福感でいっぱいだった。ここがそっけないお店のカウンターの上なのが残念なくらいだ。暖炉にかかったヤカンをはずしてお茶が入れられると、リリーは持ってきたショコラーデをパキンと二つに割り、銀紙ごとヴェルナーに差し出した。
「これを食べるのは久しぶりだな…」
 ヴェルナーはそうしみじみとつぶやくと、口をつけた…かと思うと、その寸前で動きを止めた。目だけをリリーへうつす。
「……なんだ?」
 リリーは熱心に覗き込んでいた顔をぱっとカウンターから離して弁解した。
「えっ、ううん!なんでもないわよ」
「変な奴だな。まさか、妙なものが入ってるってわけでもないだろ」
 そんなわけないじゃない!とリリーは不自然に力説して、ショコラーデを一かけ割ると素早く口に入れた。
「…美味しーい!やっぱり、ブレンド調合したかいがあったわね!」
 口だけじゃなく、その味が体全体にしみわたるような感覚。口に入れると同時にじわっと溶けるからだろうか。甘いもの好きのリリーは、自画自賛してにっこりだった。
 ヴェルナーは、お菓子一つでこんなにも喜ぶリリーを、幸せな奴だよな、と思いながら自分も一口食べた。割る時は硬いが、口に入ると途端にやわらかくなる。それにまず驚いた。昔食べた時には、そんなことを気にもしなかったのだが。
「こりゃ、前に酒場にあったものよりずいぶん美味しいぜ」
 ヴェルナーは、いいものに対しては素直にほめてくれる。それがいつも嬉しい。リリーは、その言葉が欲しくて、ここへやって来たという気がした。
「喜んでもらえて良かった!」

「あ、あら、あららっ?」
 後方からすっとんきょうな声がして、二人が振り返ると、いつの間にやって来ていたのか、そこにはリリーの友達で、キャラバンで占いをしているイルマが立っていた。
 ヴェルナーの雑貨屋は、好事家か限られた職業の人以外めったに訪れない。リリーはイルマがここへ来たのをはじめて見た。イルマは大きな目をこぼれんばかりに見開いている。ヴェルナーは、好奇な視線を痛いほど感じた。
「リリー、探してたのよ。こんな所にいたのね〜」
 イルマは、そう言いながらも状況を察しようと目をキョロつかせた。階段を上った先がどうなっているのかと思えば、こうである。友達が、見慣れぬ男と仲良くお茶していた。
「珍しいと思った。イルマがここに来るなんて。あたしに用事って、何?」
「またまたー!今日はリリーの誕生日でしょう。こんな所で二人っきりのパーティをやっているだなんてね。もう、リリーも水臭いったら、彼氏のこと教えてくれたっていいじゃない〜」
「えっ、イルマ、勘違いよ!そんな…」
「しらばっくれても無駄よ。うふふ、それじゃ、おじゃまだったみたいね」
 イルマはハッピーバースディ、とリリーの手の平にコメート原石をのせると、ポニーテールをはずませて階段を下りていった。異様に嬉しそうな後姿である。
「イルマ、誤解よ、ごかーい!!」
 リリーの叫びはむなしく反響もない壁に吸収された。声が届かないと思い知るやカウンターに向き直り、大きなため息を一つはく。
「誕生日だったのか」
 意地悪そうな目を光らせて、ヴェルナーが言った。
「さっきのは本当か?俺に祝って欲しくてここへ来たわけじゃなかったのか?」
 まるでリリーの心を見透かしたように、唇のはしに笑みを浮かべている。
「ヴェルナーまで〜…本当に偶然よ…。最近忙しくって、自分の誕生日のこと忘れてたし…」
「俺の目を見て言えよ」
 しかし、リリーは反対に、顔を手で隠してうつむいた。
「そんなのはやましいって証拠だ」
 ヴェルナーは無理やり、リリーの手をつかんで顔から離した。リリーのうつむいたままの顔は真っ赤だった。
「本当よ、誕生日のことは忘れてたの、今指摘されてびっくりしたくらいで…」
 ほとんど涙目だ。
 ヴェルナーは、震える肩を、そっと抱き寄せた。

 大きくドアの開く音、それと同時に男の野太い声が響いた。
「ごめんください、だんなは居ますかな」
 二人はハッとして体を引き離した。我に返ったリリーがまばたきをする。さっきのは何?しかし体は発火したように熱く、焦がされるとまで思った。この機を幸いと立ち上がる。
「水汲んでくるっ」
 カウンター脇の水色のかめを拾い、階段を駆け下りた。すれ違いさまにやって来た男を見る。大きな荷物をしょっていて、どうやら旅の行商人らしい。さっきの様子からいって、時々この店に来るのだろう。

 店を出ると、空気がひんやりして気持ち良かった。ほてった体が冷やされる。まだ心臓はどきどきいっていたが、さっきよりもだいぶ落ち着いた。
 リリーはかめを抱いたまま、しばらく動けなかった。職人通りを、時がゆっくりと通り過ぎてゆく。それをぼんやりと見送った。なぜか自分の今と過去と未来が、一緒に映し出されているような気になる。
 なぜだろう、あたし、こんなに人のことを考えたことがなかった。ううん、考えるんじゃない、揺さぶられるっていうのかな。こんなに揺さぶられることって無かった。一体なんだか分からないけど、運命に反したとしても、こうしていたいっていう、そういう気持ち…。
 思い出すと、おさまりだした動悸がまた高鳴る。リリーは頭をふると、かめを持ち直し、井戸へ向かった。冷たい水を飲んで、頭をすっきりさせたい。しかし、つるべを引く手に力が入らなかった。

「よう、リリー!なんだ、また水汲みすぎて持ち上がらなくなってるのか?」
 武器作りに水がいるのだろう、両手に桶をかついだゲルハルトがやって来た。ゲルハルトは、返事も待たずにリリーの横からさっそく縄を握ると、力強く引きはじめた。
「あ、ありがとう」
 リリーはボーっとしている自分を恥じた。あわててかめに水を汲む。
「ん?いい匂いだな」
 ゲルハルトが鼻をひくつかせる。
「甘くて美味しそうな…」
「あっ、今ショコラーデを食べてたから、それでかな」
 リリーは自分の手に息を吹きかけてみた。たしかにちょっと、ショコラーデの匂いがする。
「リリーのショコラーデは絶品だからな。あ〜また酒場に行きたくなってきたぜ!」
 ゲルハルトは、両肩にたっぷり水の入った桶をかつぐと、じゃあな、と去っていった。

 もうそろそろ、いいかな?気持ちもだいぶ落ち着いたし。

 リリーはかめをかついで雑貨屋に戻った。階段を上っていると、また入れ違いに行商人とすれ違った。ちょうど帰る所だったらしい。
「よう、ご苦労さん」
 ヴェルナーはポットに新たなお湯をそそぐと、かめの水をやかんに入れた。さっきの商人にも、お茶を出したらしい。
「冷めたからな、お茶入れなおそう」
「そうよ、まだ一口しか食べていなかったわ」
 二人はそれを思い出し、また一口食べた。こんなお菓子をいっぺんに食べてしまうのはもったいない。一口ずつ、大事に味わわねば損というものだ。
「さっきね、外でゲルハルトに会って、甘い匂いがするって言われたの」
「あいつは…好きだからなぁ」
 ヴェルナーはカウンターから身を乗り出すと、リリーに顔を近づけた。
「ふむ、たしかに」
 そう言ったヴェルナーからも、ふんわりとショコラーデの匂いがただよってきた。二人をつなぐ香り。そう思うとくすぐったい。一緒に食べるっていうのは、たしかに相手と親密になれる。美味しいものだと、幸せになれる。ショコラーデは、甘く溶けて、すべて融合してしまいそうだ。いまこの空間も、雨だれの伝う窓の外の景色のように、幸せに溶けて、にじんでゆくよう。
 ようするに、夢見心地ってわけね。
 そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
「なんだよ、さっきから一人でにやにやと」
 そういうヴェルナーも嬉しそうだ。
「この時間がずっと続けばいいなって」
 言葉は素直に口から出ていた。
「ショコラーデが無くならないといいのにな!って思ってたの」
「そうだな」
 ヴェルナーは、優しく顔をほころばせた。めったに見れないけど、リリーの大好きな笑顔。子供が笑った時のような、そういう表情。
 リリーは、いつでもそういう顔をしていられないこの人のことを、いとおしいと同時にせつなくなった。彼には自分と違った過去があり、自分と違ったものの見方、考え方がある。それを知りたい。
 あなたの目に、世界はどう映っているの?
 でも、その気持ちはうまく言葉にできない。だからこそ、一緒にいたいのではないか、一緒にいれば、いつか少しずつでもそれが分かるのではないだろうか。

 お茶の澄んだ緑色を覗いていたリリーの視界に、大きな手が割り込んできた。軽く握られていたその手が、ゆっくり開く。
「これ、やるよ」
 手のひらには、銀色のスプーン。それがちょこんとのっていた。上品な白銀に輝いている。そしてそれは、遠目からはなんてことのない、普通の銀のスプーンでしかないのだが、間近で見ると、銀で出来た細い糸がより合わさって、柄になっているかのようだった。まるで、大切な宝箱の、秘密の鍵のようだ。
 リリーは、当惑した顔でヴェルナーを見上げた。
「誕生日なんだろ。さっきの商人がいい銀食器を持ってきてな」
「これは、もらえないわ。あたしの目にだってすごいものだって分かる。それに、銀食器ってセットじゃないと価値が下がるんじゃないの?」
 ヴェルナーはリリーの前にスプーンを置くと、フードの頭をくしゃっと撫でた。
「そんなの、おまえが気にするんじゃねえよ。気に入ったからやる。それだけだ」
 リリーは、そっとスプーンを手に取った。銀の糸が今にもほろりと解けてしまいそうで、大事に両手で握りしめる。
「ありがとう。大切にする」
「ああ、そうしてくれ」
 リリーは、再びしげしげとそれを見て、複雑でいながらシンプルなような細かい糸たちを指でなぞってみた。糸たちは、自由に、円になり花になり、風や炎、小さくまたたく星たちへとくるくる姿を変えているかのようだった。運命。運命の糸のよう。
 じっと見ているうちに、このスプーンが、初めに感じた自分に不似合いな代物などではなく、まるでここへ来て、リリーが持つことになると、ずっと以前から決まっていたかのような気がした。
 そうなんだ。リリーはなんとなく安心した。きっとこれでいいんだ。
 よけいなことを心配しない。きっと、色んなことに意味があって、それで私は今ここにいる。そのことに、安心していいんだ。
 そう感じると、晴々とした心持ちになった。気持ちを受け入れられると、新しいものが見れる。おぼろにかすむ自分の道が、遠くに見えてくる。懐かしいようで、嬉しいような感じだったが、なぜか胸が痛んだ。

 スプーンをにぎったまま、目を伏せるリリーを見ていたヴェルナーは、最初微笑ましいと思っていたが、リリーの表情がかすかに変わると、いきなりふと不安になった。リリーは今たしかにここにいる。でも次の瞬間には、いなくなってしまう、そういうことがあるような気がした。いつの間にか、このカウンターの前にリリーがいる日常が当たり前のようになっていたけれど、それが絶対などとなんで言い切れるのか。
 ショコラーデをまた一口食べて、運命に立ち向かう勇気をもらう。リリーが作ってくれたショコラーデ。彼女の思いがこもっているはずだ。今食べた一口は、甘いのに、苦かった。

 雑貨屋の扉がギィ、ときしんだ音をたてて開くと、高いかかとが階段を上る音が聞こえた。
「リリーさんっ」
 息を切らした様子で、この雑貨屋に不似合いな、華やかな女性があらわれた。紅潮した顔に緋色のドレスが目に眩しい。
「あら、あなたは…」
 女性はいきなりリリーの手を取ると、潤んだ目で
「通じたの」
と言った。
 リリーは口を開きかける、でも言葉は出てこなかった。女性は、教会の女神像のように、慈愛に満ちた微笑を浮かべていた。でもそれより、もっとせっぱつまったような感じ。永久不変の像とは違う、まさに今生きていること、それを感じさせる女性の表情。ヴェルナーは訳が分からず、ただ二人を眺めていた。
 女性を見つめるリリーの目は、それだけで多くを語っていた。琥珀色の、水晶球のように。
「…良かったわね」
 多くの言葉がなくても、二人の女の子は同じ気持ちでいるようだった。なにかとても、大事なこと、大事な気持ちらしい。
「リリーさんのおかげですわ。ショコラーデはやっぱり魔法のお菓子だったのよ」
「ショコラーデ?」
 ヴェルナーは、残りの少なくなった、それを見つめた。
 女性は、そこで初めてヴェルナーの存在に気づき、あっけにとられた顔をした。
「あ、ごめんなさい。リリーさん、今度ゆっくりね」
 そういうが早いが、そそくさと立ち去っていった。

「なんだったんだ?今のは」
 あのような人がこの店に来たのも、リリーとすごく親しげなのも、ヴェルナーは狐につままれたような感じだった。
「ショコラーデがどうとか言っていたが…なんだ?魔法のお菓子ってのは」
 リリーはいたずらの見つかった子供のように言った。
「秘密よ」
 スプーンを口にあて、目を細める。
「今はまだ」
 ヴェルナーは、またリリーの頭をぐしゃっと乱暴に撫でた。手の下の顔は、幸福そうだった。ヴェルナーは身を乗り出し、手をそのまま自分のもとへ引き寄せる。同時にもう一方の手をリリーの頬にあてた。
 リリーの持っていたスプーンが、ティーカップにぶつかり、澄んだ鐘のような音をたてる。
 リリーには、スプーンが小さく、分かってたよ、と呟いた気がした。
 そのまま、二人の唇はかさなった。ショコラーデを食べるように、自然だった。リリーは、嬉しかったのだが、なぜか苦しくて、涙がこぼれた。








わ〜い、誕生日&バレンタイン記念♪
この文で目指したものは、迷宮のような甘々話です。どうでしょう、そんな感じがちょっとでも出ているでしょうか…。
狭い舞台で密度の濃い話というのは好きです。
スプーンは、外国では赤ちゃんに贈る風習があったりとか、あと、すくうって意味があったりとか、それから「パラダイス・カフェ」という漫画で主人公の女の子がスプーンをお守りにしているのが可愛いなぁと子供のころから思っていて、プレゼントになったのです。 (04/2)